孤独の発明:感想・考察 ポール・オースター

ポール・オースター『孤独の発明』の感想・考察 アメリカ

『孤独の発明』とは?

『孤独の発明』は、アメリカの小説家ポール・オースターさんが1982年に発表したデビュー作(回想録)です。

(作者はポール・ベンジャミンという偽名で以前にも出版していましたが、ポール・オースターとしては本作がデビュー作)

本作は作者の代表作の一つ『ニューヨーク三部作』を理解するうえで重要なソースとなっていることから、必読の書と言えると思います。

なお、ポール・オースターさんに特に影響を与えた作家は、モンテーニュ、セルバンテス、ディケンズ、ドストエフスキー、トルストイで、中でも『罪と罰』からは、作家になるうえで決定的な影響を受けたようです。

本作との関連で言うと、モンテーニュが重要になります。モンテーニュは16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者であり、自分のことを書いた最初の現代作家として知られています。主著『エセー』はある種の自画像であり、ポール・オースターさんが『孤独の発明』を書いているときはモンテーニュが常に心の裏側にいたそうです。

その意味で、『孤独の発明』はポール・オースターさんのある種の自画像と言えるかもしれません。

『孤独の発明』の感想・考察

『孤独の発明』を可視化したトリック写真

孤独の発明のトリック写真

この画像は『孤独の発明』の英語版『The Invention of Solitude』の表紙で、そこに使われているトリック写真はタイトル『孤独の発明』を可視化したものです。

このトリック写真は、デビュー作の表紙に採用されていますし、本作からは後の『ニューヨーク三部作』の元ネタが感じられますし、作者を理解するために重要だと思います。

写真の被写体はポール・オースターさんの父です。父が分裂して会議をしているようですが、各父はお互いを見ていないし、見られてもいません。つまり、見えない人間です(『孤独の発明』の前半のタイトルは『見えない人間の肖像 Portrait of an Invisible Man』)。

この見えない人間は『ニューヨーク三部作』内の2作目『幽霊たち Ghosts』のタイトルを借りて、「ゴースト」と言い換えることができると思います。

このゴーストは孤独なときにしか生まれるもので、他人に認識されているとき(孤独じゃないとき)は生まれないもの。

ゴーストとして本体(自分)を三人称で語れること。『孤独の発明』とはこのことを言っているのだと思います。

『孤独の発明』内で引用されているランボーの言葉「Je est un autre(私とは他者である)」は、本作の要点を端的に表していると思います。

『孤独の発明』の人称変化が意味すること

『孤独の発明』は二部構成で、前半は一人称語り、後半は三人称語りとなっており、この違いが重要な意味を持っていると思います。

前半は『見えない人間の肖像 Portrait of an Invisible Man』というタイトルで、父のことを一人称で書いたもの。作者は父の様々な遺品から父の多重性を感じ、父一人のことを書いているはずが、複数人のことを書いているような錯覚に陥ります。前述のトリック写真も遺品の一つです。

続く後半部もですが、正直、個々のエピソードにはあまり興味がわかず、重要だとも思いませんでした。それよりも、作品、前半部、後半部のタイトルがそれぞれ何を意味しているか、それを表現するために本作はどのような構成になっているか、そのことに興味を持ってよみました。

後半は『記憶の書The Book of Memory』というタイトルで、自分のことを一人称で書いていたけど上手くいかず、三人称で書き換えたもの。一人称では自分との距離が近すぎて自分のことが見えなかったところ、三人称で書いてみたら自分との距離ができて上手くいったそうです。

自分のことを三人称で語るとき、まるで、自分のそばにいるゴーストになったよう(イメージは前述のトリック写真)。ゴーストも自分だが自分ではない。部屋に一人だが一人ではない。孤独だが孤独ではない。

その他のイメージとして、ポール・オースターさんは翻訳された本やピノキオをあげています。翻訳された本は元の本と同じ本だが同じではない。ピノキオは作者カルロ・コッローディのゴースト。

なお、ポール・オースターさんは、ゴーストは記憶の空間に生まれるものと定義しており、そのことは後半部のタイトル『記憶の書』と繋がっているようです。

本作終盤で「He remembers ~ing.」という表現が連続するところでは、Heが誰かわからなくなりました。筆者の子供のことか、筆者のことか。まるでゴーストが重なっているよう。このための三人称語りなのかもしれません。

「Je est un autre. 私とは他者である」ならば「他者とは私である」。本作とはズレてしまいますが、たまに似たことを思います。自分が自分なのはただの運の結果。運次第では、目の前の人と自分は逆だったかも。そう考えると、他人がありえたかもしれない自分に思えてくるのです。

孤独は発明の主体か客体か?

私は第一感では客体だと思ってしまいました…孤独は無生物だから主体とは思いにくいです…(言い訳)

『孤独の発明』の英語原文は『The Invention of Solitude』。ここから普通に考えるとSolitudeは主体でしかありません。最初からタイトルに書いてあったのに見落としていたなんて、うっかりしていました…😂

この「The speech of the president(大統領のスピーチ)」の例文のように、ofの後ろを人間にするとイメージがしやすいと思います。

「The Invention of Solitude」を主語と動詞に置き換えると、主語がSolitudeで、動詞がInvent。

動詞の目的後は本文で語られるGhosts(表紙のトリック写真)。

英語タイトル『The Invention of Solitude』を意味重視で意訳すると「孤独が生み出すもの」くらいでしょうか。

意味を重視するか、タイトルとしての座りを重視するか、翻訳って難しいですね。

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