アレクサンドリア四重奏:あらすじ・登場人物・原書で読んだ感想・考察 ロレンス・ダレル

アレクサンドリア四重奏:あらすじ・登場人物・原書で読んだ感想・考察 ロレンス・ダレル イギリス

『アレクサンドリア四重奏』とは?

『アレクサンドリア四重奏』は、イギリスの小説家ロレンス・ダレルさんが1957~1960年にかけて発表した、4部作の長編小説です。

1, 2, 3巻は(時間の前後はありつつも)同じイベントを異なる視点から書いています。各巻はお互いにお互いが差し込まれる (intercalaryな)関係にあり、X軸、Y軸、Z軸や、一次元、二次元、三次元など、例えは何であれ、空間を形成する役割を担います。1, 2, 3巻では第四の次元である時間は進みません(時間は飽和している)。

最後4巻は1, 2, 3巻の続編となり、時間の飽和が解除され、物語の時間が進みます。

従来の小説形式に従って前巻(1, 2, 3巻のいずれか)+後巻(4巻)の2冊とせず、前巻に三重の多重性を与えたところが革新的な作品だと思います。

作者は序文で以下のように書いています。

The whole was intended as a challenge to the serial form of the conventional novel: the time-saturated novel of the day.

和訳版の訳:全体が従来の連続形式小説に対する挑戦、つまり時間漬けの現代小説に対する挑戦のつもりで書いた。

ブログ筆者による訂正訳:全体が従来の連続形式小説に対する挑戦、つまり時間が飽和した現代小説のつもりで書いた。

和訳の補足説明
和訳版はtime-saturatedを「時間漬け」と訳していますが、「時間が飽和した」とするとわかりやすいと思います。その他、私の解釈は以下のとおりです。

  • 挑戦する相手は「従来の連続形式小説」であって「時間漬けの現代小説」ではない。
  • コロン(:)はイコールの役割を果たすので、コロンの前後はどちらも『アレクサンドリア四重奏』のことを指している。
  • 挑戦されるのはconventional novelで、挑戦するのはnovel of the day (conventional[従来]とof the day[現在]が対比の関係にある)。
  • time-saturated(時間が飽和した)は本作の1, 2, 3巻で時間がこれ以上進まないことを指していて、それと対比されているのがserial form 連続形式[時間は飽和していない=進行可能])

本記事では、今後も和訳について個人的な修正案をいくつか出しています。悪く見れば翻訳者さん否定しているように見えてしまうかもですが、そういう意図はないので、ご理解いただけますと幸いです。

翻訳者さんには翻訳者さんの考えがあるでしょうし、私が間違えているかもしれないですし。それに、パースウォーデンの手記など、私には理解できないような難解な原文を見事に訳されていて、凄いなぁと思ったり、和訳版に助けていただいた部分も多々あります。

誰が正しいとかではなく、みんなで意見を出し合って、理解度を上げて、作品を楽しめたらいいなと思っています。

SushiGPT
SushiGPT
ピカソさんのキュビズム(立体主義=同一のモチーフを、複数の視点から見たキューブの各面を組合せ、立体的に表現する様式)のような小説とも言えるかもしれません。

個人的には、いつかアレクサンドリア現地で読むのが夢で、人生でやり残していることリストのトップはこれかもしれない、というくらいに思い入れのある作品です。

『金閣寺』の主人公が金閣寺を想像の中で理想化するのと同様に、私もアレクサンドリアを理想化してしまいます。現実に失望してもいいからアレクサンドリアに行きたい。そこでこれを読まずには死ねない…

the city which used us as its flora

ぼくたちをおのれの植物群と見ていたあの都会

floraから連想する別のイメージとしては共生細菌もあると思います。アレクサンドリアから見たら、自分は一匹の細菌でしかない。でもそれで全然いい。アレクサンドリアの細菌になりたい。それくらいアレクサンドリアを上げて、自分を下げてしまいます(笑)

The characters in this story, the first of a group, are all inventions together with the personality of the narrator, and bear no resemblance to living persons. Only the city is real.

この物語は一群の作品の第一作だが、ここに登場する人物は語り手を含めてすべて虚構であり、現存する人物とはなんの関係もない。ただ都市だけが現実のものである。

という最初のNoteも最高です。Only the city is real!

『アレクサンドリア四重奏』の登場人物

最も重要な5人の登場人物

ダーリー Darley

物語の語り手。イギリス人男性。教師をしながら生活費を稼ぎ、小説を書いている(he teaches for a living and writes novels)。人妻ジュスティーヌとの不倫に夢中になる(夫のネッシムを哀れに思う)。冒頭で以下のように語る、ナルシスティックな一面がある。

I have escaped to this island with a few books and the child – Melissa’s child.

数冊の本をたずさえ、子供を連れてぼくはこの島へ逃げて来た – メリッサの子供を連れて。

I have come here to heal myself.

ぼくは自分を癒しにここへ来たのだ……。

ジュスティーヌ Justine

ユダヤ人女性。エジプト人の大富豪ネッシムの妻でありながら、語り手ダーリーと不倫をする。クレアとは過去に同性愛も。クレオパトラやサロメのような魔性の女。Jamais de lavie(二度とこの世では)という香水を使用。

国際都市アレクサンドリアの多面性を体現する役割を担う。

and [I] knew her for a true child of Alexandria; which is neither Greek, Syrian nor Egyptian, but a hybrid: a joint.

そして彼女が本当にアレクサンドリアの子であるのを知った。ギリシア人でも、シリア人でも、エジプト人でもない。それらの混成であり結合だ。

“Look! Five different pictures of the same subject. Now if I wrote I would try for a multi-dimensional effect in character, a sort of prism-sightedness. Why should not people show more than once profile at a time?”

「見てごらん!ひとつのものが五つの違う形になって映っている。わたしが小説家なら、性格の描写に多次元的な効果を出してみたいと思うところね。プリズムを通して見るみたいに。人が一時にひとつのプロフィールしか見せてはならないってこともないでしょ」

バルタザール Balthazar

イギリス人男性。イギリス政府の性病診断所に勤める医師。ホモセクシャル。この都会の鍵のひとつ(he is one of the keys to the city)。懐中時計(pocket watch)の鍵を失くしてしまい、このままでは時計が止まってしまうことを心配している(1, 2, 3巻では時間が飽和して進まないことを暗示していると思われる)。

マウントオリーブ Mountolive

イギリス人男性。若き外交官としてアラビア語習得のためエジプトに派遣される。その後は外交官としてヨーロッパ各地を転々とし、再びアレクサンドリアに帰還。

イギリスの植民地インドで生まれ、11歳のときイギリス本国に戻った過去を持つ。これは(外務省に勤め各地を転々としたことと併せて)作者のロレンス・ダレルさんと同じ設定。これらのことから、作者を投影したキャラクターと思われる。

クレア Clea

ムスリムの女性。画家。バルタザールの診療所で患部の絵も描いている。ジュスティーヌの絵を描き終えたとき二人の同性愛は終了。交友関係が広く、語り手のダーリーよりも状況をよく理解している。

次に重要な5人の登場人物

メリッサ Melissa

ギリシア人女性。元アトリエのモデル、今は踊り子。ダーリーの恋人、毛皮商人コーエン(Cohen)の愛人、ネッシムの不倫相手。ダーリーが「メリッサ!メリッサ!」と語るのが印象的。

ネッシム Nessim

エジプト人(コプト人)男性。大富豪ビジネスマン(銀行家)。イギリスを嫌っているホスナニ家(コプトの豪族)の長男。マウントオリーブとは彼のアレクサンドリア滞在時からの友人。コプト人の団結とより高い地位を求め、弟のナルーズと共に民族運動を始める。ジュスティーヌ(ユダヤ人)と結婚した理由はユダヤ委員会の信頼を得るため。

パースウォーデン Pursewarden

イギリス人男性。外交官として後にマウントオリーブの部下になる。ネッシムとは友人関係。アレクサンドリアではダーリーとフラットをシェア。作家としても成功している。パースウォーデンの小説論として『アレクサンドリア四重奏』の構想を語る役割を担う。

レイラ Leila

ホスナニ家の母。医者になりたかったが、女性の自由を抑圧するエジプト的な親に反対されて諦めた過去を持つ。マウントオリーブのアレクサンドリア滞在時に不倫関係になる。マウントオリーブと文通をしている間に天然痘(Smallpox)で美貌の名残りを失い、黒いベールを纏うようになる(エジプト的ポジションを確定させるため?)。

アルノーティ Arnauti

ジュスティーヌがネッシムと結婚する前の夫。アルバニア出身のフランス人作家で、ジュスティーヌをモデルにした『Moeurs(ムール=風俗)』という小説を書いた。

ジュスティーヌに夢中なダーリーはこの本をほとんど覚えるほど何度も読む。さらに、アルノーティが『Moeurs』のために書いたノートを、ジュスティーヌの日記だと思い込んでのめり込む。

アルノーティ、パースウォーデン、ダーリーという3人の作家が、過去、現在、未来に対応する役割を担う(メリッサ、ジュスティーヌ、クレアの女性達も同様の対応関係にある)。

その他の登場人物

ナルーズ(Narouz):アレクサンドリア郊外に広大な土地を持つホスナニ家の次男。唇が裂けた兎唇であることがコンプレックス。クレアに想いを寄せる。年1回、謝肉祭の仮面舞踏会のときだけアレクサンドリアに来る。演説が上手く偉大な宗教家になれる素質がある。

ポンバル(Pombal):ダーリーとフラットをシェア(後にパースウォーデンと交代)。フランスの下級領事官(A minor consular official)。

カポディストリア(Capodistria [Da Capo]):大富豪。クラブのテラスに座り、通り過ぎる女性を眺め、子分を介して女性を買っている(ineffably rich, sits all day on the terrace of the Brokers’ Club watching the women pass)。片目に黒パッチをしている。子供時代のジュスティーヌをレイプした。

ムネムジャン(Mnemjian):床屋の店主。アレクサンドリアの情報通(the Memory man)でありアーカイブ(the archives of the City)。

スコービー(Scobie):イギリス人の警察官。70代男性。エジプトでよくある割礼に反感を持つ。女装してアレクサンドリアの港町をうろついている(spends his time dressed as a woman walking about the harbour at Alexandria)。

コーエン(Cohen):メリッサをお金で買う愛人。ネッシムの民族運動をサポート(He was our chief agent for arms shipments)。メリッサにどこまで話している?

キーツ(Keats):イギリス人の特派員/派遣記者(Global Agency correspondent)。ジャーナリストに典型的な、何でも記録したがる神経症(he had developed the typical journalist’s neurosis)。

マスケリン(Maskelyne):イギリス陸軍省の軍人(a soldier in War Office)。ネッシムの陰謀に気付きマウントオリーブに報告するが、決定的な証拠は得られない。

メムリク(Memlik):エジプトの内務大臣。ネッシムを祈祷会に招待して観察する(ネッシムも観察されていることに気づく)。

『アレクサンドリア四重奏』のあらすじ

ジュスティーヌ

時は1940年代、場所は地中海の小さな島。ここで語り手のぼく(次巻でダーリーという名前だとわかる)がアレクサンドリアでの過去を回想していく=四部作全体の大枠がまず示される。

1930年代のアレクサンドリアはイギリス統治下にある国際都市(エジプト的な首都カイロとは対極)。五つの種族、五つの言語、十にあまる宗教、五つを越える性があり、さまざまな宗派と教義が入り乱れている。

ジュスティーヌはアレクサンドリアのような多面性を持つ女性で、エジプト人の大富豪ネッシムの妻。しがない教師をしながら小説を書いているぼくは、貧しく病弱な恋人メリッサがいながら、このジュスティーヌとの不倫に溺れて行く。

ジュスティーヌには作家の前夫がいて、彼は『Moeurs(風俗)』という小説を書いていた。この小説はジュスティーヌの全てを書いているわけではないが、ジュスティーヌの検死のような作品で、ぼくは内容をほとんど覚えてしまうほど読み込む。

ジュスティーヌは、バルタザールを介して、ぼくをカバラ(ユダヤの秘教)を学ぶカバル(秘密結社)へ勧誘する。しかしその後、ぼくはイギリスのシークレットサービスに勤めるスコービーから、バルタザールがリーダーを務めるギャングが戦争に繋がる陰謀を企てていると知らされる。ぼくは金銭的報酬と引き換えにイギリスの諜報活動に協力するようになる(情報通のムネムジャンも仲間)。

やがてぼくはサマーパレス(アレクサンドリア郊外にあるネッシムの別荘)でのパーティーに招待される。ぼくやネッシム等の男性陣はカモメ猟を楽しむが、猟中の事故でカポディストリアが死んでしまう。そしてジュスティーヌが失踪する。世界大戦(WW2)が近づいていた。

I see at last that none of us is properly to be judged for what happened in the past. It is the city which should be judged though we, its children, must pay the price.

やっと、過去に起こったことについてはぼくたちの誰にも責任がないということがわかってきた。裁きを受けるべきはあの都会なのだ。たとえ犠牲を払わなければならぬのはその子供ら、ぼくたちであるにしても。

“There are only three things to be done with a woman” said Clea once. “You can love her, suffer for her, or turn her into literature.”

「女に対してすることは三つしかない」そうクレアはあるとき言った。「女を愛するか、 女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけよ」

バルタザール

『ジュスティーヌ』を読んだバルタザールが、大量の訂正を書き込んだ原稿をぼくがいる小島に届けにくる。ぼくは美人の人妻と不倫をして良い気になっていたが、実際は……。ネッシム、ナルーズ、レイラ等ホスナニ家と、ジュスティーヌの過去が明かされ、ぼくは認識の破壊と再構築を求められる。ぼくのいる離れ小島はvantage-point(見晴らしの良い場所)だった。

アレクサンドリアのすべての結婚は愛ではなくビジネスのパートナーシップ(All Alexandrian marriages are business ventures after all.)。ネッシムとジュスティーヌ、それぞれの目的とは?また、兎唇のナルーズが、年1回、謝肉祭の仮面舞踏会のときだけアレクサンドリアに来る目的とは?

そしてパースウォーデンからは、新しい小説(アレクサンドリア四重奏)の着想と思われるアイデアが示される。

“We live” writes Pursewarden somewhere “lives based upon selected fictions. Our view of reality is conditioned by our position in space and time – not by our personalities as we like to think. Thus every interpretation of reality is based upon a unique position. Two paces east or west and the whole picture is changed.”

パースウォーデンがどこかに書いている。「ぼくらは選び取った虚構の上に築かれた生を生きる。ぼくらの現実感覚は自分たちが占める空間と時間の位置に左右される – ふつう考えるように、ぼくらの個性に左右されるのではない。だから、あらゆる現実解釈はそれぞれの独自の位置にもとづいてなされるのだ。二歩東か西に寄れば画面のすべてが一変する」

マウントオリーブ

本巻では語り手が一人称(ぼくDarley)から三人称(作者?)に変わり、ナルシストの自分語りからは予想もしなかった国レベルの話になる。

時は『ジュスティーヌ』『バルタザール』より前のこと。マウントオリーブは将来を嘱望されるイギリスの若き外交官で、アラビア語習得のためにアレクサンドリアへ派遣されていた。マウントオリーブは現地のホスナニ家に住み込み、やがてレイラと不倫関係になる。

しかし、その愛は国からの指令により中断を余儀なくされる。マウントオリーブは外交官としてヨーロッパ各地を転々としながらレイラと文通を続ける。そして成長したマウントオリーブは、エリート外交官としてアレクサンドリアに戻ってくる。

当時(WW2前)のエジプトはイギリス統治下にあり、コプト人が重要な地位から弾き出されてしまっていた。これを快く思っていないネッシムは陰謀を企て、イギリス政府はその動きを察知。マウントオリーブは友人と母国の間で板挟みになる。

headed Nessim Hosnani, and sub-titled A Conspiracy Among the Copts which alarmed me somewhat. According to the paper, our Nessim was busy working up a large and complicated plot against the Egyptian Royal House.

その表題は『ネッシム・ホスナニ』、副題が『コプト人の陰謀』。小生は多少ぎょっとしましたね。これによると、われらのネッシムはエジプト王家の転覆を目論み、大規模かつ複雑な計画を立てているという。

Through him I hope that one day we Copts will regain our place in Egypt

いつかは彼(ネッシム)の手によって、コプト人がエジプトでのかつての地位を取り戻す日が来るでしょう

クレア

1, 2, 3巻で形成された空間が4巻で時間とで会い、飽和してそれ以上進まなかった時間がついに進む。そして、空間が時間と結婚するとき、ありふれたBoy Meets Girl Storyが現代最高のそれに生まれ変わる。

ダーリーは戦争に飲み込まれたアレクサンドリアに戻り、ムネムジャン、ポンバル、ネッシム、ジュスティーヌ、バルタザール等と再会。過去と現在を回収して行く。

羽振りが良い者、没落した者、戦争で片目と指を失った者、死んだ者、死んだと思われていたが生きていた者、母国の降伏を嘆く者、過去を笑いたい者、故人に後めたさを感じる者、自殺未遂をする者、新たな恋愛を始める者。アレクサンドリアは巨大な孤児院となり、みんなが人生の最後のチャンスを逃すまいとして焦っていた。

圧巻なのはパースウォーデンのノート。ここで作者による現代小説批判と新たな小説論が展開され、『アレクサンドリア四重奏』の構想が明確に示される。

画家のレイラは事故で手を失うが再び描き始め、作家を目指しているダーリーは……。

Perhaps our only sickness is to desire a truth which we cannot bear rather than to rest content with the fictions we manufacture out of each other.’

たぶん、私たちの病気はただひとつ、お互いに作り出す虚構に安住できなくて、耐えられそうもない真実を欲しがることなのね。

Human beings are like pipe-organs, I thought. You pull out a stop marked ‘Lover’ or ‘Mother’ and the requisite emotions are unleashed — tears or sighs or endearments. Sometimes I try and think of us all as habit-patterns rather than human beings.

人間ってパイプオルガンみたいなものだな、とおれは思った。「恋人」とか「母親」というストップを引き出せば、それに必要な感情が解き放たれる – 涙とか、溜息とか、愛撫の言葉とか。時には、おれたちはみんな人間というよりも、習慣の型ではないかと考えたくなるよ。

No, but seriously, if you wished to be — I do not say original but merely contemporary — you might try a four-card trick in the form of a novel; passing a common axis through four stories, say, and dedicating each to one of the four winds of heaven. A continuum, forsooth, embodying not a temps retrouvé but a temps délivré. The curvature of space itself would give you stereoscopic narrative, while human personality seen across a continuum would perhaps become prismatic? Who can say? I throw the idea out. I can imagine a form which, if satisfied, might raise in human terms the problems of causality or indeterminacy…. And nothing very recherché either. Just an ordinary Girl Meets Boy story. But tackled in this way you would not, like most of your contemporaries, be drowsily cutting along a dotted line!

いや、真面目な話をすれば、もしきみが – 独創的で、とは言わない、ただ単に現代的で – あることを望むなら、小説の形で四枚のカードのトリックをやってみてもいいのじゃないか。いわば四つの物語に一本の軸を刺し通し、そのおのおのを天の四風に捧げるのさ。じつのところ、これは、見出された時ではなく、解き放たれた時を体現するひとつの連続体なんだ。空間の彎曲自体が立体的な物語を与えてくれる。一方、連続体を通して見た人間の個性は、おそらく、プリズムを通したように分解するのじゃないかな?それは誰にもわかるまいよ。おれは思いつきを投げ出してみただけだ。うまくゆけば、人間関係のなかに、因果性とか不確実性とかの問題を提起するような形式が、おれには想像できるんだが……。しかも、凝ったようなところなんぞべつにありゃあしない。娘が若者に会うだけのありふれた恋物語だ。だが、こういう取り組み方をするとなれば、現代作家連中がやっているように、寝ぼけながら点線通りに歩くというわけにはいくまいぜ!

『アレクサンドリア四重奏』の感想・考察

『アレクサンドリア四重奏』が特別な作品である理由

洋書版のイントロで第三者が、作者は本四部作を「Investigation of Modern Love(モダンラブの研究)」と定義して多様な愛の形を探索した(私のメモ:異性愛、同性愛、浮気、 不倫、愛人、パートナー交換、近親相姦など)、というようなことを書いているけど、これはたぶんそんなに重要じゃない。

一番重要なのは、ありふれたBoy Meets Girl StoryがSpace Meets Timeで激変すること(なぜなら作者が作中でそう書いているから)。Space Meets TimeはLiterature Meets Science と言ってもよいと思う。このことに比べたら、その他のすべては単なる付属物に過ぎない 。

この点を更に掘り下げるなら、作中の下記部分が重要になってくると思う。

‘To intercalate realities’ writes Balthazar ‘is the only way to be faithful to Time, for at every moment in Time the possibilities are endless in their multiplicity. 略’

和訳版の訳:「時間に忠実であろうとするなら」とバルタザールが書いている。「現実を挿入するほかはない。時間のあらゆる瞬間における可能性は限りなく多様だからである。略」

ブログ筆者による訂正訳:「時間に誠実であろうとするなら」とバルタザールが書いている。「現実を挿入するほかはない。時間のあらゆる瞬間における可能性には無限の多重性があるからである。略」

和訳の補足説明
  • 日本語版はfaithfulを「忠実」と訳しているけど、個人的には「誠実」と訳したい。
  • 日本語の「現実」に対応する英語は「realities 」と複数形。挿入する現実は単数形では意味がなく、複数形であることに意味がある。
  • endless「無限」やmultiplicity 「多重性」も重要なキーワード。

今この瞬間(時間)、XYZの三次元空間のあらゆる座標であらゆることが起こっているけれど、自分に見えているのは一部だけ。その一部から現実を語るのは不誠実。誠実であろうとするなら、三次元空間の全座標(無限に細分化可能)を同時に重ねること(無限の多重性)が必要になる。無限の多重性を小説でやるのは無理だから 1, 2, 3巻の三冊としたのは現実的な落としどころ。

多重的な空間が時間と出会うとどうなるか?作者は次のように書いている。

And nothing very recherché either. Just an ordinary Girl Meets Boy story. But tackled in this way you would not, like most of your contemporaries, be drowsily cutting along a dotted line!

しかも、凝ったようなところなんぞべつにありゃあしない。娘が若者に会うだけのありふれた恋物語だ。だが、こういう取り組み方をするとなれば、現代作家連中がやっているように、寝ぼけながら点線通りに歩くというわけにはいくまいぜ!

※日本語版の「〜歩く」の英語はcutting along a dotted line (点線に沿って切る)→現代作家がやっていることはその程度のこととdisっていますね…

“In the Space and Time marriage we have the greatest Boy meets Girl story of the age.”

「空間と時間の結婚 – ここに当代最大の『ロマンス物語』がある。

※『ロマンス物語』の原文は「Boy meets Girl story(ありふれた、ベタな物語というニュアンスあり)こっちの方がイメージしやすいかも?

1巻でナルシストの自分語りかと思っていたら、2, 3巻で提示される新事実には本当に衝撃を受けました。作者が、ordinary Girl Meets Boy storyであっても本作の手法で表現すればthe greatest Boy meets Girl story of the ageになる、と書いたのは決して大げさなことではないと思います。

それくらいの衝撃を受けたし、刺激的で面白かった。世界の見方を一変させる力のある作品という意味で、『アレクサンドリア四重奏』は文学史上に残る名作中の名作だと思います。

あらすじの解像度を下げた理由

『アレクサンドリア四重奏』が凄いのはSpace Meets Timeという構成であって、物語の細部じゃない(実際、作者もそう書いている[前述])。

絵で例えると、ピカソのキュビズムが凄いのは、その発想であって、キューブの一面一面の詳細じゃない。ポロックのドリッピングが凄いのは、その発想であって、ドリップの1滴や線が具体的にどこにどう落ちるかじゃない。それと似た考え方で、『アレクサンドリア四重奏』のあらすじを整理することにあまり意味はないと思います。

極論、『アレクサンドリア四重奏』の構成があれば、物語の中身は何でもいい。中身は『桃太郎』でもいい。西洋だったら『オイディプス王』の方がいいかもしれない。みんなが知っているベタな物語も『アレクサンドリア四重奏』の構成を適用すると、物語が劇的に生まれ変わる。

芸術が世界の見方を変えるものなら 『アレクサンドリア四重奏』も芸術ということになり、文学史上に残る名作中の名作という主張も可能になると思います。

というわけで、本記事の前述のあらすじは、だいぶ解像度を下げてまとめました。個人的には、いつか現地で『アレクサンドリア四重奏』を読みたいという夢もあるため、そのことを思うと今回読んだ記憶は消えてくれた方が好都合だったりもします(笑)

※中身は何でもいいと言いつつ、実際は何でもよくはないかもしれません。なぜなら『アレクサンドリア四重奏』の中身は面白かったから。誰と誰が関係を持ったとか、誰々が死んだとか、誰々の陰謀だとか、そういうものは「ありふれたもの」に分類されると思うし 、5W1H的なことに特別なものはなかったと思います(仮面舞踏会などアレクサンドリア的なものは例外だけど) 。でも『アレクサンドリア四重奏』の中身は面白かったし、特に最後の一文は絶品。これは誰にでも簡単に書けるものじゃない。『アレクサンドリア四重奏』は物語の枠と中身の両方が優れた作品であって、作者の言葉を真に受けて、枠を誉めて中身を貶してしまっては、作者と作品に対して失礼だなと思いました(作者は謙遜しているだけかも?)

SushiGPT
SushiGPT
『アレクサンドリア四重奏』の内容と構造のどちらをより重視して読むか、文系出身者と理系出身者で違うかも?前者は内容を、後者は構造を、より意識して読んでいたりするかも?(私は理系です)。

他作品との比較:戦争と平和

トルストイさんは『戦争と平和』(1867年)で終始一貫して「歴史を作るのは一人の英雄ではなく無数の民衆である」と主張しています。もう少し噛み砕くと、一人の英雄の行動は「無数の民衆の意識と無意識の総和(以下「それ」とする)」に従属するという意味かなと思います。

これと似たようなことが『アレクサンドリア四重奏』(1957-1960年)にも書いてあったので以下に引用します。

Helplessness began to creep over him, for every decision now seemed no longer a product of his will but a response to pressures built up outside him; the exigencies of the historical process in which he himself was being sucked as if into a quicksand.

無力感が身うちに忍びこみ始めた。なぜなら、あらゆる決断はもはや意志の産物としてあるのではなくて、まわりに積み上げられた外圧に対する反応としてなされるようにおもえたから。歴史の進行という緊急事態のなかに、彼自身がまるで流砂のように吸いこまれかけている。

『アレクサンドリア四重奏』の「外圧」から、『戦争と平和』の「それ」を想起しました。

アインシュタインさんの『相対性理論』は1905年だから、『アレクサンドリア四重奏』(1957~1960年)のような物理的視点なしに、感覚的にこのことに気付いたトルストイさんは凄いと思います。

また、両作の違いとして、『戦争と平和』は時間が飽和していない従来の連続形式小説、つまり「アナログ」であるのに対し、『アレクサンドリア四重奏』の1,2,3巻は時間が飽和しているため、異なるレイヤーを多重的に重ね合わせた「デジタル」という比喩も思いつきます。

『アレクサンドリア四重奏』のように、世界を多重的に見るのは科学的な態度であって、 それはつまり、Literature Meets Scienceとも言えると思います。ScienceとはModernなものなので、『アレクサンドリア四重奏』はModernな小説であり、Scienceが死なない限りは『アレクサンドリア四重奏』も色褪せない。ある種の永遠性を獲得しているという意味からも、『アレクサンドリア四重奏』は文学史上に残る名作中の名作という主張も可能になると思います。

『アレクサンドリア四重奏』から学んで今後気をつけたいこと

一つのイベントでも、観測者がいる位置と時間が異なれば、異なる解釈が生じる=現実の多重性(multiplicity in realities)。

自分の視点が1巻だとして、他人の視点を最低でも2つ(それぞれ2,3巻に対応)想像する癖をつけたいなと思いました。

●Case 1:イスラエルとパレスチナ

Book 1:自分の視点(パレスチナへの虐殺を止めろ)

Book 2:イスラエルの視点(彼らをそうさせるのは何?)

Book 3:周辺のアラブ諸国やアメリカの視点(プレイヤーはイスラエルとパレスチナの二者だけじゃないかも?=第三者の影響を想像)

●Case 2:スポーツの審判の判定

Book 1:何や今の判定(怒)

Book 2:現場の審判には何が見えていた?(何が見えなかった?)

Book 3:VAR室では何が起こっていた?

📝具体的な引用箇所

Our view of reality is conditioned by our position in space and time

ぼくらの現実感覚は自分たちが占める空間と時間の位置に左右される

Thus every interpretation of reality is based upon a unique position

だから、あらゆる現実解釈はそれぞれの独自の位置にもとづいてなされるのだ

Two paces east or west and the whole picture is changed

二歩東か西に寄れば画面のすべてが一変する

To intercalate realities is the only way to be faithful to Time, for at every moment in Time the possibilities are endless in their multiplicity.

時間に誠実であろうとするなら現実を挿入するほかはない。時間のあらゆる瞬間における可能性には無限の多重性があるからだ(和訳版を自分なりに少し修正)

→現実は常にrealitiesと複数形であり、その瞬間(時間)において観測者の数だけ多重性がある。

有名な最後の一文とNudge

And I felt as if the whole universe had given me a nudge!

全宇宙が親しげにぼくを小突いたような気がした。

有名な最後の一文はやっぱり絶品。再読だから既に知っている一文だけど、今回もやっぱり良かった。好きな一文で打線を組むなら確実にスタメンです。

原文の「!」を和訳で「。」にしたのは原文からの逸脱だけど、個人的には「。」の方が良いと思うので賛成。nudgeから「親しげに」を捻り出したのはブラボーな翻訳です!

📝私はこの一文でnudgeを覚えました

nudgeのコアイメージは「相手の注意を引くためにそっと押す」。

例えば、友達と悪ふざけしてるときに向こうから先生が来るのが見えたとき「おい、先生来たぞ」って伝えるために隣の子を肘でちょこんとつつく。

他の例だと、バレンタインのチョコを上げたいけど一人で行く勇気がないからお友達に途中まで付き添ってもらったのに、いざとなったら勇気が出なくて、お友達の方が「なにモジモジしてるのよ、勇気出して行きなさいよ」って肘でちょこんとつつくとか。

『アレクサンドリア四重奏』の最後の一文の場合は・・・ネタバレ防止のため控えておきます。

人間は地理の囚人

since man is only an extension of the spirit of place.

なぜなら人間とは土地の精神の延長にほかならないからだ。

We are the children of our landscape; it dictates behaviour and even thought in the measure to which we are responsive to it.

ぼくたちはこの風景の子供らだ。この風景が行動を、思考さえも指示する。ぼくらが風景に反応する度合いに応じて。

『アレクサンドリア四重奏』の上記部分から、昨年読んだ『Prisoners of Geography』を思い出し、本当にそうだなと思いました。

日本人は日本列島の地理に影響されてそう。国民性や県民性を掘り下げると最終的には地理に行き着くのかも?

アレクサンドリアは何の病気?

Alexandria was the great winepress of love; those who emerged from it were the sick men, the solitaries, the prophets – I mean all who have been deeply wounded in their sex.

アレクサンドリアは愛をしぼり取る大圧搾器であり、そこから出てくるのは病人、孤独者 、預言者である – つまり、性に深い痛手を負う人たちすべてのことだ。

ジェイムス・ジョイスさんがダブリンを「半身不随もしくは中風」と言ったのは有名だけど、アレクサンドリアを病名で表現するなら何になるだろう?

精神疾患や性病あたりで上手く表現したいけど、病名をあまり知らなくて…

東京は何の病気?いくつか思いつきますが悪口になるので自粛します(苦笑)

『ジュスティーヌ』の由来

ジュスティーヌはサドの『ジュスティーヌ(美徳の不幸)』から採っていると思われます。理由は四部作全ての巻のエピグラフでサドの『ジュスティーヌ』から引用しているため。

『ジュリエット(悪徳の栄え)』ではなく、なぜ『ジュスティーヌ(美徳の不幸)』なのか?二作とも未読なので現時点ではわからないです。

美徳と悪徳は関係しているのか?または、人間の多面性に関する記述が『ジュスティーヌ』側にあるだけか?この二作をいつか読むときがあればここに注意して読みたいです。

『マウントオリーブ』の重要性

作者ロレンス・ダレルさんは3巻『マウントオリーブ』を全四部作の構成全体を繋ぎ止める釘と表現していて、自身の人生(イギリスの植民地インドで生まれ、11歳で母国に戻り、その後イギリスの外務省に勤め各地を転々とする)を主人公マウントオリーブに投影していることから、『マウントオリーブ』は四部作の中でも特殊かつ重要な巻と思われます。

There were never any differences between us and the Moslems in Egypt before they came. The British have taught the Moslems to hate the Copts and to discriminate against them.

エジプトでは、やつら(イギリス人)が来るまで私らとイスラム教徒のあいだにはなんの差別もなかった。イギリス人がイスラム教徒にコプト人を憎むことを教え、コプト人を差別することを教えたのだ。

When the British took control of Egypt the Copts occupied a number of the highest positions in the State. In less than a quarter of a century almost all the Coptic Heads of Departments had disappeared.

イギリス人がエジプトの支配権を握ったとき、多くのコプト人がこの国の最高の地位を占めていた。二十五年足らずのうちにコプトの大臣たちはほとんどすべて姿を消した。

Through him I hope that one day we Copts will regain our place in Egypt

いつかは彼(ネッシム)の手によって、コプト人がエジプトでのかつての地位を取り戻す日が来るでしょう

事実がフィクションかわからないけど、全くの事実無根なら書かないだろうし、非難轟々に浴びそうだから、全くのフィクションという可能性は低いのかなと思います(シャーロック・ホームズのthe balance of probability[確率のバランス]的に)。

自分の国を批判的に書ける客観性が、1, 2, 3巻で示される立体的な視点と合わせて、優秀だなと思いました。外務省に勤め海外を転々とした経験が活きているのかもしれません。

移動距離は客観性に比例する。だから海外旅行は重要。手軽に仮想海外旅行ができる読書はすばらしい。

ただし、海外旅行は客観的な視点を得るために重要なんだけど、「オレはこんなに世界を知っている、どやすごいやろ、世界を知らないおまいらに教えたるで」って上から目線になったり、日本に対して謎に攻撃的になってしまう罠には注意が必要だと思います。

暑い、寒い、豊か、貧しい、どんな場所にも人がいて、自分と同じことに喜怒哀楽して、決して楽ではない毎日を生きている、その姿を目に焼き付けて、旅すればするほど、学べば学ぶほど、謙虚になるのが大事。大切なことは普通の人々が教えてくれる。

読書もすればするほど知識が増えて行くから、似たような罠があるところに気をつけたいです。

フラットランド

『アレクサンドリア四重奏』の1, 2, 3巻で見えてるものが全く違う様が、『フラットランド』のラインランド(一次元)、フラットランド(二次元)、スペースランド(三次元)の関係に重なりました。

自分は点や面で見てるだけで立体で見れてないかも?自分と考えが異なる人には何が見えているんだろう?他人の立場に立って考えるって大事。

って口で言うのは簡単だけど実際にやるのはすごく難しい。全然できないし、すぐ忘れてしまいます。そもそも他人の立場に立って考えるなんてことが現実的にどこまで可能なのか?

できることがあるとすれば、自分には見えてないものがあるかも?っていう意識を持って謙虚さを維持することくらいでしょうか。できないことは仕方ない。できることをやろう。

『フラットランド』とは?
教師が書いた中編小説(1884年)。次元の教育をしつつヴィクトリア朝時代の階級差を風刺。

フラットランド(二次元)はカースト制のあるディストピア。男性はN角形でNが大きいほど身分が高く、子供は必ずN+1角形。女性は線=男女格差を風刺した設定。

語り手のスクエア(正方形)はラインランド(一次元)やスペースランド(三次元)の図形と話が噛み合わない。

フラットランドでスペースランドの話をすることは重罪とされる(国民は知識を得ず無知なままでいた方が支配者に都合がいい)。

N次元の図形がN+1次元の図形と話すとき、前者は後者の話が理解できないだけでなく、怒って後者を攻撃し出すのが風刺が効いててよかった。こうならないように気をつけたい。

オーディブル版について

『アレクサンドリア四重奏』のオーディブル版の表紙

Justine: The Alexandria Quartet, Book 1
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SushiGPT
SushiGPT
オーディブル版(英語)は全四巻とも聞き放題対象です!

この作品(表紙)にはどんなメッセージが込められているんだろう?

観測対象に光を当てると、それをベースにしつつも違った模様が見える=物事の表面だけ見ててもあかんでっていうことかしら?

●オーディブルのこと

語り手のダーリーはイギリス人だから英語ネイティブ。でもユダヤ人のジュスティーヌやエジプト人のネッシム等は英語非ネイティブ。訛りのある英語がオーディブルの朗読でも表現されていて良かった。

(いつか日本語版オーディブルを作るなら、英語非ネイティブキャラのセリフは外国人が話す日本語みたいに読む必要がある。朗読者さんの負担エグいw)

文学は吟遊詩人の弾き語りで始まり、紙本という形式で広まり(拡散と記録に便利だった&当時は他に媒体がなかった)、今はオーディブルで原点回帰。活字は文学の全てではなくて、あくまでも一形態にすぎない。ただでさえ斜陽の出版業界は活字に拘りすぎない方がよいかも?

自分の場合、活字だと細部がよくわかるけど全体への意識が疎かになりがち。オーディブルだとその逆。それぞれ一長一短で相補的。最近は過去に活字で読んだ作品をオーディブルで聴くのが楽しい。

その他のメモ

アレクサンドリア観光のためのメモ

Café Al Aktar:検索ヒットせず。架空and/or閉店と思われる。

Café Al Aktar where Balthazar waited for me in his black hat to give me “instruction.”

El Bab:検索ヒットせず。架空and/or閉店と思われる。

I wished I could imitate the self-confident directness with which Justine threaded her way through these streets towards the café where I waited for her: El Bab.

Cecil Hotel:実在

I see her (Justine) sitting alone by the sea, reading a newspaper and eating an apple; or in the vestibule of the Cecil Hotel (Wikipedia [English]), among the dusty palms, dressed in a sheath of silver drops, holding her magnificent fur at her back as a peasant holds his coat — her long forefinger hooked through the tag.

The Rue Fuad:実在

We soon learn the geography of the place, from the handsome Rue Fuad (X [English]) to the meshed Arab backstreets, from the elegance of L’Etoile or the Cecil Hotel to the hashish cafes of the slums or the sandy approaches to the Western Desert.

アレクサンドリアに関する記述

Five races, five languages, a dozen creeds: five fleets turning through their greasy reflections behind the harbour bar. But there are more than five sexes and only demotic Greek seems to distinguish among them.

五つの種族、五つの言語、十にあまる宗教。港口の砂洲に隠れて油じみた影を映しながら向きを変える五つの艦隊。だがここには五つを越える性がある。そのなかで通俗ギリシア語だけが際立って耳につく。

Alexandria was the great winepress of love; those who emerged from it were the sick men, the solitaries, the prophets – I mean all who have been deeply wounded in their sex.

アレクサンドリアは愛をしぼり取る大圧搾器であり、そこから出てくるのは病人、孤独者、預言者である – つまり、性に深い痛手を負う人たちすべてのことだ。

It was the best hour of the day in Alexandria — the streets turning slowly to the metallic blue of carbon paper but still giving off the heat of the sun.

アレクサンドリアの一日のうちでは、いまがもっともすばらしい時刻だ — 街々はしだいにカーボン紙のような金属性の青味を帯びていくが、太陽の熱気はまだ残っている。

Alexandria, princess and whore. The royal city and the anus mundi. She would never change so long as the races continued to seethe here like must in a vat; so long as the streets and squares still gushed and spouted with the fermentation of these diverse passions and spites, rages and sudden calms.

アレクサンドリア、王女にして娼婦。王侯の都市にして世界の尻の穴。さまざまな種族が葡萄酒樽の液汁のように沸騰し続けているあいだは、彼女は変わることはあるまい。この雑多な情念と、悪意と、憤激と、とつぜんに訪れる静けさとが発酵して、街路や広場に噴出し、奔流となって流れているあいだは。

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