阿Q正伝
『阿Q正伝』は、短編集『吶喊』(1923年)に収録された魯迅さん初期の作品。
ぼんやりの記憶で、主人公が世間のフォニーと戦ってた印象から夏目漱石さんの『坊っちゃん』みを感じていたけど、今回再読して改めました。阿Qもフォニーで、フォニーvsフォニーのどうしようもない物語やないかい(笑)
でも当時はこれが現実で、そんな現実を批判し改善に導くために本作を書いた、魯迅さんの気持ちを想像するとせつないです。
📝作者と作品のこと
魯迅さんは中国で初めて口語文の小説を発表した、中国現代文学の父。
魯迅さんを含む海外留学組は文学革命を提唱(1910年代〜1920年代)。口語文文学が国語を作り、その国語が国民国家を作るという思想。
具体的には、上層階級は文語文(古文)、下層階級は口語文(白話)だったのを、文語文は旧、口語文は新として、口語文を主流にした言文一致を目指した。
※建国の父、孫文さんの辛亥革命は1911-1912年。
阿Qはフォニーなのになぜ正伝?フォニーに「正」はおかしい、でも当時はフォニーが多数派、だからフォニーが「正」になる、という意図だと推測。タイトルもせつない。
📝他作品との比較
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と『坊っちゃん』はイノセンスvsフォニーで、主人公はそれぞれ10代と20代。イノセンスはフォニーに負けるけど、読了後は暖かい気持ちになる。
『阿Q正伝』はフォニーvsフォニーで、主人公は30歳(而立=孔子の三十而立)。弱者が弱者を叩く構図が醜悪(強者が弱者を叩くのもダメだけど)。読了後は陰鬱な気持ちになりつつも、風刺作品としてはよく出来ているとも思う。
📝一般化可能性と限界
文学が国語を、国語が国民国家を作るって、壮大だけど、大袈裟ではないように思う。昨年読んだ『The Written World(物語創世 聖書から〈ハリー・ポッター〉まで、文学の偉大なる力)』曰く、本は文化のソースコード。
日本のソースコードは紫式部さんの『源氏物語』。もののあはれや花鳥風月の愛で方を日本に広めた。日本人の精神性には、国民的作家の夏目漱石さん(※)の成分も入ってそう。
※生家も養家も上級町人で武家にも通じる階層に生まれた=武家と町人の両方(江戸)を継承。
自分の国に偉大な作家がいて偉大な作品があるって幸せなことですね。と言いつつ、まだn=1の日本だけなので、外国の事例も要確認。
弱者が弱者を叩く構図は多かれ少なかれ時代や国境を越える人間に普遍的なものかも。今の日本にもありそう。
狂人日記
↑に収録『狂人日記』は、文語文(知識人)から口語文(民衆)へ、文学革命の始まりとなった作品。魯迅さんにとっても初作品(1918年)。
『藤野先生』のエピソードからの活動は上手く行かず挫折。自分の魂に麻酔をかけ、将来に希望を持たないようにした。だから何かに怒ることもない。
しかし旧友との議論がきっかけで、文学を再開。
「希望は将来にあるのだから、絶対に無しという私の悟りでは、彼のあり得るという説を決して説得できず、そのため私もついに何か書こうと承知したのであり、それが最初の一作「狂人日記」なのである。」(自序)
『狂人日記』は、主人公が精神錯乱した狂人で、食人を扱っているから、色物的な作品と誤解されやすいかもだけど、実際は希望が込められた魯迅文学の始まりの作品。
ここが好き↓
「あるにしても、昔からそんなものだったんで……」
「昔からそんなもんだから、正しいのか?」
孔乙己
↑に収録『孔乙己』もフォニーの物語。主人公の孔乙己は、会話に口語を使わず文語を使って知識人ぶっているけれど、科挙には受からなかった。
いちおう勉強はしたから、茴香豆の回の字の書き方が四通りあることを知っていて、語り手の僕に自慢気に教えようとするけど、そんな知識あっても意味ない。
Wikipediaの↓が興味深い。
- 当時:知識はあるけど現実では何もできない読書人が多くいて社会問題になっていた。
- 現在:大学は卒業したけどホワイトカラーに就職できず、でもブルーカラーにはなりたくない若者が孔乙己に共感。「孔乙己文学」というネットミームができた。
📝紹興を訪れたときの写真(2012年)
①『孔乙己』に登場する咸亨酒店。奥に入るとちゃんと飲食できる席があるけど、孔乙己はこっちの外側で飲んでいた。
②紹興酒
③茴香豆
④「孔乙己にはまだ一九文の貸し!(孔乙己还欠十九个钱呢!)」
📝拼音メモ
孔乙己:kong3 yi3 ji3
咸享:xian2 heng1
茴香豆:hui2 xiang1 dou4
欠:qian4
绍兴:shao4 xing1
鲁迅:lu3 xun4
故郷
『故郷』のここ好き。原文が拾えたので✍️
僕は考えたー希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
我想:希望本是无所谓有,无所谓无的。这正如地上的路;其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路。
百草園から三味書屋へ
↑に収録この短編集は、本作『百草園から三味書屋へ』や、『故郷』、『藤野先生』など、ノスタルジックな作品で当時の中国を想像しつつ、自分の子供時代のことも思い出させてくれる作品。
一方で、『孔乙己』や『阿Q正伝』など文学による革命を目指した鋭い作品も印象に残る。
📝紹興を訪れたときの写真(2012年)
①百草園
百草園は魯迅家の裏の庭で、魯迅少年にとっての楽園だった場所。「青々とした野菜畑に、ツルツル滑る石の井戸、大きなサイカチの木、紫のクワの実〜略」
②三味書屋
三味書屋は街で一番厳しい塾で、魯迅少年もここで学んだ。「壁の真ん中には三味書屋と書かれた額がかかっており、額の下には掛け軸があって、丸々と肥えた白斑点の鹿が古木の下で伏せている画だった。」
三味とは?本作の注釈によると、書物には三種の味わいがあり、『論語』など儒教の経典はご飯、『史記』など歴史書はおかず、文語文小説は調味料。
③紹興の魯迅故里(①と②がある場所)
④八字橋からの眺め、紹興は水の都
藤野先生
↑に収録魯迅さんは日本に留学し、藤野先生の下で医学を学んでいた(画像は紹興の魯迅紀年館)。
しかし本作で語られるエピソードをきっかけに、医学より先に、文学で人々の精神を改革する必要があると考えを改め、文学を志す。
異国の恩師に不義理をしてしまう共通点から、村上春樹さん『中国行きのスロウ・ボート』も併せて読みたい✍️
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