『坊っちゃん』とは?
『坊っちゃん』(1906年)は夏目漱石さんの代表作の1つとして知られる中編小説で、デビュー作『吾輩は猫である』(1905年)の次に発表された作品です。
夏目漱石さんが愛媛県の中学校に教師として赴任していたときの経験を元ネタに書かれました。
本作は約10日という非常に短い期間で書かれたらしく、有名な冒頭「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」が象徴する主人公のキャラクター性ともリンクし、とても勢いのある作品です。
個人的には、語尾の「ぞなもし」を真似していたことがあるくらい好きな作品で、親譲の無鉄砲な性格が清々しく、読んでいて楽しく、大好きな作品です。
いつか道後温泉に行って、坊っちゃん団子を食べて、ターナー島も見てみたい。千円札が夏目漱石さんじゃなくなったときショックでした。この変更には徹頭徹尾反対であり、全然不同意でありますぞなもし!(笑)
『坊っちゃん』のあらすじ
主人公の坊っちゃんは「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」で家族から疎まれていたが、下女の清(きよ)だけは坊っちゃんの正義感の強い性格を誉めてくれた。
四国の中学校の教師となった坊っちゃんは、教頭の「赤シャツ」、美術教師の「野だいこ」、数学主任の「山嵐」、英語教師の「うらなり」等と出会う。
赴任早々、生徒達に悪戯、嫌がらせを受けた坊っちゃんは、生徒達の処分を求めるも、赤シャツを中心に問題を表面化したくない教師たちは事件をうやむやにしようとする。
うらなりの婚約者であるマドンナに気がある赤シャツは、うらなりを宮崎県へ転勤(左遷)させてしまう。これに怒った坊っちゃんと山嵐は、赤シャツと子分の野だいこを懲らしめる。
そんな中学校に嫌気がさした坊っちゃんは辞職し、清の待つ東京の家に戻る。
『坊っちゃん』の感想・考察
作者と作品のこと
江藤淳さんの解説から、夏目漱石さんの特徴として以下の3点が興味深かったです。
- 江戸末期に生まれ大正初期に亡くなった。つまり、一生の中に明治時代を含み、一生のほとんどを明治時代に生きた人。
- 生家も養家も上級町人かつ武家にも通じる階層。他の作家が切り捨てようとした江戸を継承。
- 国費留学先のロンドンで最先端の近代を目の当たりにして神経衰弱になる。
また、『坊っちゃん』は明治初期の作品ということで、つまり、江戸(人情)から明治(近代=科学)という時期の作品。清は江戸時代の象徴で、名前はそのまんまイノセンス。坊ちゃんもイノセンス側のキャラクターですね。
夏目漱石さんは世界最先端の近代ロンドンへ留学したときに、精神を病むほどイノセンスの敗北を悟ったそうです。『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』で敗北をユーモアに昇華することで、気持ちを誤魔化していたのかもしれません。
主人公の坊ちゃんは「ことに語学とか文学とか云うものは真平御免だ。」悪役の赤シャツは「文学士」。エリートの自分を自嘲しているみたいでせつないです。
他作品との比較
キャッチャー・イン・ザ・ライ、J.D.サリンジャー
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、主人公ホールデンが社会のPhony(インチキ)を片っ端からdisって行きます。曲がったことが大嫌いな坊っちゃんが片っ端からdisって行くところは、2人の共通点だと思います。
For instance, they had this headmaster, Mr Haas, that was the phoniest bastard I ever met in my life.
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の上記部分は、校長のMr Haasを教頭の赤シャツに入れ替えればそのまま使えますね。
「the queen of the phonies(『キャッチャー~』)→the king of the phonies(『坊っちゃん))」の言い替えも可能です。
また、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のイノセンス担当は妹のフィービーで、物語の最後でホールデンはフィービーにキャッチされます。同じく『坊っちゃん』も、最後は清の元に帰ります。
嫌いな人にあだ名を付ける点も両作の共通点だと思います。ホールデンは寮の隣部屋のアクリーのことをAckley Kidと呼んでいます。ホールデンはこれだけですが、坊っちゃんは片っ端からあだ名を付けていきます:校長は狸、教頭は赤シャツ、美術教師の野だいこ等。嫌いな人にはあだ名を付けましょう(笑)
こころ、夏目漱石
『坊っちゃん』は明治初期の作品で、江戸(人情)から明治(科学)へという位置づけの作品でした。『こころ』は大正初期の作品で、明治(先生)から大正(私)へという作品です。
『坊っちゃん』は、イノセンスは敗北するけれど、ユーモアがありました。しかし、『こころ』は、ユーモアはなくて暗かった印象を受けました(記憶違いだったらすみません、いつか再読して確認します)。この2作の間に何があったのでしょう?
イノセンス vs フォニー
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンは17歳。坊っちゃんは23歳。イノセンスvsフォニーの戦いは10代では終わらず20代でも続く。そしてどちらもイノセンスの敗北。
『人間失格』の葉蔵は27歳で、30代には未達。『ティファニーで朝食を』のホリーは19歳。『グレートギャツビー』のギャツビーの年齢は確か明記されてないけど、友人ニックが30歳になって精神崩壊するから、ギャツビーも同世代とすると、30代を十分に経験済というわけではなさそう。
ここに例として挙げた、イノセンスを擬人化したような文学界のヒーロー/ヒロイン達でも、フォニーに抗いながら30代以降に進めていない。30代以降もフォニーに抗い続けているイノセントな主人公の小説ってあるのでしょうか?
当時の時代背景
夏目漱石さんがロンドンに留学したのは1900〜1903年にかけての間の約2年で、デビュー作『吾輩は猫である』は1905年、次作『坊っちゃん』は1906年でした。
当時のロンドンはシャーロック・ホームズの時代で、1893年に『最後の事件』が発表された後に休止して、1901年に久しぶりの長編『パスカヴイル家の犬』で単発で復活し、1903年の『空き家の冒険』で連載が再開された頃。
その他だと、1901年ヴィクトリア女王死去、1905年アインシュタイン特殊相対性理論、文学はモダニズム、絵画はラファエル前派、オスカー・ワイルドの『真面目が肝心』は1895年、ミレーの『オフィーリア』は1851-1852年、といった時代。
夏目漱石さんの『坊っちゃん』を読むと、日本語として一部に違和感があり少し古く感じます。これは『シャーロック・ホームズ』原文に感じる違和感に似ていて、英語として読めるけど、現代英語と比較して少し古く感じる。言葉は少しずつ変わっていくということが、『坊っちゃん』からも『シャーロック・ホームズ』からも感じられます。
個人的に、これからはAIの読み上げに注目していて、AIが音訓、は(ha or wa)、へ(he or e)などを間違えて読むのが面白いなと思っています。この読み方が流行ってくれても全然かまわないんですけど、たぶん反対する人は多いでしょうね(笑)
印象に残った台詞
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」略「つまり月給の多い方が豪(えら)いのじゃろうがなもし」
切ないけど、いつの時代もこんなものなのでしょうね。だからこそイノセンスが輝くとも言えるわけで、せめて文学の中だけは夢を見させてほしいなと思いました。
イノセンスが敗北することは知ってるけど、諦めきれずにいる残り火に、少しだけ新たな火を灯してくれるのが『坊っちゃん』で、だから今でも愛されてる作品なのかもぞなもしです。
「人間は竹の様に真直でなくっちゃ頼もしくない。」
その他メモ:吾輩は猫である
『吾輩は猫である』のオーディブル版が聴き放題対象だったので、さくっと聴いてみました。
冒頭の一文からいきなり面白くて、それ以降もずっと面白くて、本当にブラボーだと思いました。これがデビュー作なんて天才作家の登場確定じゃないですか。今後の作品も楽しみすぎる(って当時の読者達は思ったのでは?)。
「Hats off gentlemen, a genius!(帽子をとりたまえ諸君、天才だ!)」と、シューマンさんが若きショパンさんへのレビューで書いた言葉を、夏目漱石さんにも使いたいです。
📝吾輩の飼い主の名前が珍野苦沙弥で、その他の登場人物もみんな珍キャラなの草。猫の三毛子が◯んだとき家の人が「◯んだのが教師のとこの猫(吾輩)だったらよかったのに」って嘆いたとこは笑いました(笑)
📝吾輩とは?調べてみたら「おれさま。わし。余。尊大の気持ちを含めていう。」本作の英題は『I am a Cat』で、これだと吾輩感が出てないように思ったけど、もし英語圏でI am a kingという表現が浸透してるなら、すばらしい名訳だと思います。
ちょっと検索したら、シェイクスピアさんの『リチャード二世』がI am a kingでヒットしました。どういう文脈で使われてるかは知らないから、まだ何とも言えないけど。読みたい本がまた一冊増えてしまいました…
📝オーディブル楽しい。自分で読むとついニュートラルに読んでしまうけれど、朗読者さんが登場人物のキャラ付けや、感情のメリハリを付けてくれるから、楽しく聴けるし、作品解釈の参考になりました。珍野苦沙弥の偉そうな感じが上手く表現されていて良かったです。この偉そうなキャラを猫目線で更に上から見下ろすっていう設定が面白い。明治時代の価値観なのか、夫が妻に対して凄く偉ぶってるとこは、令和時代的にはアウトだけど。
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