『モモ』とは?
『モモ』は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデさんが1973年に発表した、ファンタジー小説です。
本作は、1974年にドイツ児童文学賞を受賞した、作者の代表作でもあります。
『モモ』は「児童文学」とされることが多いですが、実際は大人も対象としている作品だと思います。
表面的には「時間」の大切さを訴えた作品に見えるものの、「時間」はあくまでも副次的なテーマであり、主要なテーマは「お金」だと思われます。この点は後述の感想・考察で取り上げます。
『モモ』のあらすじ
『モモ』は時間泥棒から人々の時間を取り戻す少女の冒険を描いています。
物語の舞台は、どこかの町の外れにある、古い円形劇場です。主人公の少女モモは、施設から逃げ出し、この円形劇場に住み着くようになります。モモには相手の話をじっくり聞く才能があり、友達が増えていきます。みんな、モモに話を聞いてもらうとポジティブになれるのです。モモとみんなは楽しい日々を過ごします。
ところがある日、灰色の男たちが町に現れます。彼らは「時間貯蓄銀行」の代理人を名乗り、人々に「時間を節約する」よう説得し、実際にはその時間を奪ってしまうのです。その結果、人々は忙しくなり、心の余裕を失い、友情や楽しみを忘れてしまいます。
そんな中、モモだけが灰色の男たちの正体に気づきます。モモは時間を司るマイスター・ホラ のもとを訪れ、時間の秘密を教わります。そしてモモは、灰色の男たちに立ち向かっていきます。
『モモ』の感想・考察
主要テーマは「時間」ではなく「お金」
『モモ』は時間の大切さを説いた物語だとよく言われますが、本当にそうでしょうか?
私が疑問をもったきっかけは、以下の記載です。
もう時間はいらないから送らないでほしい
たった一人であり余る時間を抱えていても、今のお前には何になる?
これらの記載は「時間は大切」ということと矛盾します。
もちろん、ミヒャエル・エンデさんは時間の大切さも訴えているとは思いますが、時間はあくまでも副次的なもので、主要なテーマは別にありそうです。
それは、お金、特に「利子」の問題だと思います。以下のように読み替えると、いろいろと辻褄が合います。
- 時間 = お金
- 灰色の男たち = 利子で生まれた架空のお金
- さかさま小路 = マイナス金利の世界
時間をお金に読み替えると、前述の「もう時間(→お金)はいらないから送らないでほしい」「たった一人であり余る時間(→お金)を抱えていても、今のお前には何になる?」はしっくりくると思います。
灰色の男たちは、利子で生まれた架空のお金と思われます。その証拠に、灰色の男たちは、マイナス金利の世界を暗喩していると思われる、さかさま小路(時間も含め、何もかもが逆向きになる)に入ると、消えてしまいます。
また、灰色の男たちは、葉巻なしでは生きることができず、葉巻の煙で時間に毒を入れる、という設定になっています。煙=毒を利子に読み替えると、設定がしっくりきます。
時間貯蓄銀行への貯金 = 利子付きの借金、と考えると、さらに辻褄が合ってきます。利子分のお金を返すため、仕事に追われる。結果的に、時間に追われる。
このような状況を踏まえると、『モモ』の主要テーマは「お金」、特に「利子」について問題提起することであり、「時間」はそれに付随する副次的なテーマ、と考えられると思います。
エンデの指摘は正しいか?
ミヒャエル・エンデさんの問題提起に乗っかってみます。
人間は利子分のお金を返すため、仕事に追われる。人と競争して勝たないといけなくなる。そもそも利子は架空のお金だから、利子分を返済するためには、他人が持ってる既存のお金を奪わないといけない。競争の過程で、環境が破壊されることもあるかもしれない。
利子がある限り、人類は無限に競争し続けないといけない。無限に競争などできるのだろうか?この有限の地球で。
個人的には、このような疑問を持ちました。
一方で、借金を良く言えば融資であり、融資によってビジネスが興り、経済が発展した側面もあると思います。
利子のメリットとデメリットをどう考えるか。
ミヒャエル・エンデさんの問題提起が経済学的に正しいか、誤っているかは有識者に委ねればいいことであり、重要なことは、ミヒャエル・エンデさんのように、当たり前とされていることに疑問を持って考え直してみることかなと思います。
お金とは?経済とは?
こういったことを改めて考え直すきっかけになるのが『モモ』という作品であり、仮に有識者に否定されても『モモ』の価値は失われない、と私は思っています。
ミヒャエル・エンデさんだから正しいとかではなく、考えたこと、トライしたことに拍手です。
エンデの遺言と警鐘
念のため、『モモ』は「時間」ではなく「お金」をテーマにした物語である、ということは、私が初めて言い出したことではなく、上記二冊に代表される既出の説です。逆張りや奇をてらうことで目立とうとしているわけではありません。
繰り返しになりますが、エンデや上記二冊の著者の主張の、経済学的な正誤については、賛否両論のコメントがあるため、リンク先よりご自身でご確認、ご考察いただければと思います。
『モモ』はゆるキャラ
モモは「もじゃもじゃ頭」という設定になっていますが、これにはどんな意味があるのでしょうか?考えてみたけど思い付きいません。
わかりやすい設定として、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公、ホールデン・コールフィールドを思い出します。ホールデンは髪の片側が白髪であり、半分子供で半分大人という設定なのだと思います。

おそらく、モモの「もじゃもじゃ頭」に、ホールデンのような意味付けはなく、作者のミヒャエル・エンデさんもあえてそうしているような気がします。ひとつひとつ、全てのことに意味を求めるな、ということなのでしょうか。
もう一つ、真面目な話をしているときに、亀のカシオペイアが「朝ご飯を食べること」と言うシーンがあるのですが、ここも意味がわかりませんでした。正直、話の腰を折るなよ、と少しイラっとしました(笑)
この台詞に意味があるとも思えないのですが、もじゃもじゃ頭と同じく、いちいち意味を求めるなということなのか、こういう台詞にしておけば、子供が喜ぶと思ったのか?
前述の、灰色の男たちに関する設定も、全てを厳密に意味付けすることは難しいように思います。一応「時間 = お金」「灰色の男たち = 利子で生まれた架空のお金」「さかさま小路 = マイナス金利の世界」と読み替えてみましたが、これに付随する細部は辻褄が合わない(又は、まだ解読できない)点があります。
完璧な造形美を持つ『グレート・ギャツビー』がミケランジェロのダビデ像なら、あえて設定を緩めている『モモ』はゆるキャラみたいだなと思いました(笑)

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