フラニーとズーイ:原書で読んだ感想・考察 J.D.サリンジャー

フラニーとズーイ:原書で読んだ感想・考察 J.D.サリンジャー アメリカ

フラニーとズーイとは?

『フラニーとズーイ Franny and Zooey』は、1961年に出版されたJ.D.サリンジャーさんの連作中編小説です。

初出は『フラニー』が1955年、『ズーイ』が1957年で、二作を一冊にしたのが本作です。

フラニーとズーイの感想・考察

再びイノセンスvsフォニー

J.D.サリンジャーさんと言えば、子供のイノセンスvs大人のフォニーを描いた代表作『The Catcher In The Rye キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1951年)が有名ですが、本作も同様の構図が使われていると思いました。

サリンジャーさんは、イノセントでフラジャイルな若者や子供を書くのが上手いだけでなく、彼らをうんざりさせるウザキャラを書くのも上手いですね。

本作では母ベシーがウザすぎて草です。

※本作には登場しませんが、父レスは『Hapworth 16, 1924』で長男シーモアに批判されてるらしいです。

グラース家はチームイノセンスで一枚岩かと思いきや、親はチームフォニーだったんですね…🤣

フラニーとズーイのキャラを整理

フラニー

20歳の大学生。演劇を辞めようとしている。

自分と他人のエゴにうんざり。でも他人に認められたくて、何者でもないただの人になる勇気がもてない。

「I just could not stop picking(あら探しを止めれない)」ところがホールデンみたい。

彼氏レーンのスノビッシュな態度が駄目押しになりメンタル崩壊。

ズーイ

25歳のプロの俳優。

兄シーモアの影響で東洋思想(禅、道教、インド哲学など)に傾倒。

寝込んでいるフラニーを救おうと話しかける。

Act(役割を演じるということ)

フラニーは演劇をしている学生だけど、エゴに悩み演劇を辞めようとしている。

ズーイはプロの俳優でフラニーに「Act for God (神のために演じろ)」と言う。

また、ズーイはフラニーに「Detachment, buddy, and only detachment. Desirelessness.(デタッチメント、無欲)」とも言います。

役を演じることは自分を消すことと考えると、Actに作者の思想が込められているように思いました。

※グラース家の父レスの仕事はvaudevillian(寄席芸人)で、子供が俳優になったり、演劇をやることを自然に見せるための設定と思われます。母ベシーの仕事は不明(専業主婦?)

シーモアが傾倒する東洋思想

長男シーモアは禅、道教、インド哲学などの東洋思想に傾倒していて、弟ズーイもその影響を受けている。

作中でズーイの語る東洋思想のことはよくわからなかったけれど、仮に絶対的な善としての存在があって、便宜上その名前を神として、それのために演じろというなら共感できるなと思いました。

他人に気に入られるためとかで演じるのはフォニーっぽくて抵抗あるけど、そういう演技なら抵抗ない。

というか、元々私の全ても演技でした。素はクズすぎて誰も得しない。善人を演じた方が自分も相手も得。このブログも演技です。全てが演技というとよく思わない人もいるかもだけど、私は演技は善いことだと思ってます。死ぬまで演じきります

ズーイの言う無の境地に共感

個人的に、読書は知識を得る為じゃなく、頭を空にするためにしているようなところがあります。

多様な物語に触れることで、こうあるべきという思い込みが失くなっていく。

読書を続けた先にあるのは無の境地。ただ存在してるだけで幸せ=自分の幸せを他人に依存しない。これが最強の状態。

直近5年くらいは無の境地になれているつもりです。

なぜか先に全体像を把握したい癖があり、自然と宇宙目線になってしまいます。宇宙的には自分も地球も塵of塵。全てがどうでもいい。国家、宗教、お金、愛、結婚、常識などなど、全て人間が勝手に作ったフィクション。そんなフィクション宇宙には関係ない。無から始めて、そこに自分が良いと思うものだけを採用する。フィクションから始めるからおかしなことになる。

※すべてのフィクションが悪なのではなく、例えばサンタクロースなど、いると信じた方が幸せな気持ちになれるなら信じるのは自由、つまり、人にはどのフィクションを採用または不採用にするか、自分で選択する自由があると思っています。

世間の常識に流されて、自分を不幸にするフィクションを無意識に信じているなら、その不幸は自作自演だと思っているのですが、これくらいのことは過去の哲学者さん達が考えているのでしょうか?いったんすべてのフィクションを捨てて、無からスタートしてみればいいのに…人間はいつまで自作自演の不幸を続けるのだろう?

J.D.サリンジャーのその他の中編小説

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章

『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』は、1963年に出版されたJ.D.サリンジャーさんの連作中編小説です。

初出は『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』が1955年、『シーモア-序章』が1959年で、二作を一冊にしたのが本作です。

大工よ、屋根の梁を高く上げよ Raise High the Roof Beam, Carpenters

グラース家の長男シーモアが結婚式当日に、「幸せすぎる」ことを理由に式を放棄して、花嫁ミュリエルと失踪。残された人達とのその後のことをグラース家の次男バディが回想する。

結婚式の日は1942年、つまり第二次世界大戦(1939-1945年)中で、バディは入隊したばかりという設定(明記はないけど、シーモアは戦争経験済みの可能性が高い)。

※サリンジャーさんの入隊も1942年からで、戦争経験がPTSDになってしまう。

確かに結婚式当日の失踪はよくないけど、シーモアは(たぶん戦争で)メンタルをやられているわけで、ここの想像力を欠いてシーモアをdisる他人にバディは苛立つ。

ガラス細工のように美しいけど壊れやすいイノセンスと、それを悪気なく(デリカシーなく)壊すフォニー。この対比が印象的かつグラース家の絆が美しい作品だと思いました。

📝タイトルは妹ブーブーから兄シーモアへの書き置きで、古代ギリシャの詩人サッフォーさんの祝婚歌の引用

Raise high the roof beam, carpenters. Like Ares comes the bridegroom, taller far than a tall man.

屋根の梁を高く上げてね、大工さん。長身男性よりも長身な、アレス(戦争の神)のような花嫁が来るから。

ミュリエルってそんなに長身なの?それは考えにくいので、身長関係なく祝婚歌として引用してるだけだと思っておきます。

📝ここ好き

A child is a guest in the house, to be loved and respected – never possessed, since he belongs to God.

子供は家への来客で、愛され、尊敬されるべき存在 – 決して所有されない、なぜなら子供は神に所属してるから。

Seymour – An Introduction シーモア-序章

グラース家が好きなら読んでおきたい作品っぽいのですが、ちょっと何言ってるかわからなくてDNF(Did Not Finish)してしまいました…

ちなみに、語り手のバディ(グラース家の次男で小説家)は自らを「言葉の曲芸飛行士(verbal stunt pilot)」と評していて、私はその曲芸飛行について行くことができませんでした…

※「言葉の曲芸飛行士(verbal stunt pilot)」という表現は本作にも『大工よ〜』にもなく、『フラニーとズーイ』内のもの。

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