わたしの名は赤:あらすじ・感想・考察 オルハン・パムク

わたしの名は赤:あらすじ・感想・考察 オルハン・パムク トルコ

『わたしの名は赤』とは?

『わたしの名は赤』は、トルコのイスタンブール出身の小説家、オルハン・パムクさんが、1998年に発表した長編小説です。

本作は、数々の文学賞を受賞した作者の代表作であり、2006年のノーベル文学書受賞にも決定的な役割を果たしました。

ノーベル文学賞の受賞理由は以下のとおりです。

故郷の街のメランコリックな魂を探求する中で、文明の衝突と混交との新たな象徴を見出した。

『わたしの名は赤』では、1591年のイスタンブールを舞台に、世界の二大文明、西洋とイスラムの価値観が正面衝突します。題材の絵画はあくまでも媒体であり、本質は二大文明の衝突。絵画を通じて、両文明の価値観の違いが浮き彫りになり、とても面白いです。

また、オスマン帝国はレパントの海戦(1571年)で西洋に敗れ、絶頂期を過ぎ、西洋の脅威を感じ始めている、という時代設定も絶妙です。殺人事件の犯人捜しは、ミステリーというジャンルに属しながら、Authenticityの問題にも重ねられています(後述)。

トルコのイスタンブールは、物語のネタの質と量が、ワールドクラスです。歴史的には東ローマ帝国とオスマン帝国の首都、宗教的にはキリスト教とイスラム教、地理的には東洋と西洋の接点。

『わたしの名は赤』は、そんな最高の舞台で起こる、極上のミステリーです。

※以降、英語版『My Name Is Red』を読んでまとめています。日本語版と和訳表現が一致していない箇所もあると思われます。その点ご了承いただけますと幸いです。

『わたしの名は赤』のあらすじ

『わたしの名は赤』は、1591年イスタンブールの、雪の9日間の物語です。

時のスルタン、ムラト3世は、ムスリム歴千年(1592年)を記念した細密画本の作成を、王宮の工房へ発注します。しかしその内容は、イスラム教の教義に背く、西洋絵画の手法を用いるものでした。したがって、依頼は秘密裏になされ、細密画本の作成も限られたメンバーのみで行われることになります。

西洋では画家個人のスタイルや、遠近法に基づく写実的な絵は是とされますが、イスラムの教義では非とされました。イスラムの世界ではアッラーが絶対であり、偶像崇拝も禁止され、アッラーの視点から描く絵が是とされています。したがって、西洋の様に、画家が個性を出したり、人間の視点としての遠近法を用いたり、そもそも人間の肖像画を描くことは、神への冒涜とされていたのです。

東と西は分かり合えない。Discussion goes nowhere。

スルタンから秘密の依頼を受けたエニシテは、かつてヴェネツィアで西洋絵画を見て以来、密かに西洋の技法を採用してみたいと思っていました。エニシテはこのプロジェクトの担当者として、工房の中でも特に才能のある4人、バタフライ、ストーク、オリーブ、エレガントを指名します。

エレガントは、最初は反対していましたが、エニシテに説得されて仕事を続けます。しかし、この禁断のプロジェクトに反対している人物は他にもいて、おそらくはその人物によって、エレガントとエニシテは殺害されてしまいます。

犯人にしてみれば、これは単なる絵画の技法の問題ではなく、アイデンティティーに関わる重要な問題というわけです。

この細密画本には神秘的な赤色が使われています。また、全体は10頁から成り、9頁は通常の細密画でしたが、最後の1頁が行方不明になります。おそらくはこの1頁に重大な問題があり、犯人によって持ち去られてしまったものと思われます。この1頁には何が描かれていたのか?そして犯人は誰なのか?

※この物語には多くの語り手がいますが、一応のメインの語り手は、エニシテの甥ブラックです。ブラックはエニシテの娘シェキュレに恋をしています。個人的に、文明の衝突という大問題と比較して、二人のラブストーリーには相対的に興味が持てず、最後に少し触れる程度に留めました・・・笑

『わたしの名は赤』の感想・考察

オルハン・パムクとイスタンブール

オルハン・パムクさんは、作家を志すまでの若き日の自叙伝『イスタンブール』の中で、自分はイスタンブールに根を張り街と運命を共にする作家だと語っています。このことは、コンラッド、ナボコフ、ナイポール等が、言語、文化、国家、大陸、文明の間を移動するエグザイル作家であることとは対称的です。

したがって、イスタンブールという街を理解することなしに、オルハン・パムクさんを理解することは不可能だと思われます。

オルハン・パムクさんは『イスタンブール』の中で、イスタンブールはトルコ語でいうところのHüzünの街だと書いています。このHüzünは難敵で、直訳はメランコリーのようですが、そう単純でもないようです。オルハン・パムクさん曰く「Hüzünは個人ではなく集団で感じるもの」、「ただし外部の観測者が感じるものではない」ということらしいのですが、そう言われてよくわかりません。

そこで以下のとおり調べてもみたのですが、

オルハン・パムク_イスタンブール_Hüzün_1

オルハン・パムク_イスタンブール_Hüzün_2

それでもまだ解決しませんでした。Hüzünはイスタンブールの住人にしかわからないのかもしれません。私はまだHüzünを理解できていないのですが、ここは掘り下げる価値があるような気がしています。

さらなるヒントを求めて、ノーベル文学賞の公式サイトを調べてみました。

ノーベル文学賞

アワード・セレモニー・スピーチ:Double View

オルハン・パムク_ノーベル文学賞_アカデミースピーチ

ノーベル文学賞のアワード・セレモニー・スピーチで語られた、「Double view of reality(現実のダブルビュー)」「Western individualism and Eastern traditionalism(西洋の個人主義と東洋の伝統主義)」というキーワードは注目に値するかもしれません。

というのも、『わたしの名は赤』には、以下の記述があるからです。

  • illustrations made in half-Venetian, half-Persian mode(半分ヴェネツィア、半分ペルシアの挿絵)
  • the result was a miserable painting that was neither Venetian nor Persian(結果は、ヴェネツィアにもペルシアにもなれない惨めな絵)

イスタンブールは地理的に東洋と西洋が出会う場所なので、「Double view of reality」というのは、そのとおりなのだと思います。一例として、コンスタンティノープルの「陥落」は西洋目線でしかなく、トルコ目線では「征服」となります。同じ場所にもかかわらず、二つの見方が混在しています。

この「Double view of reality」は、客観性には強みですが、アイデンティティーには問題となるのでしょう。東は東、西は西で、両者は交わらない。人間が地理の囚人なら、これがこのイスタンブールの運命、ひいてはHüzünと関係しているのかもしれません。

ノーベル・レクチャー:Authenticity

オルハン・パムク_ノーベル文学賞_講演

オルハン・パムクさん自身によるノーベル・レクチャーでは、「Authenticity」というキーワードに注目してみました。

Authenticityの直訳は真正性ですが、私なりに意訳するなら、文学あるあるアイデンティティーの問題に、自分を信じれるかという新たな問いを加えたものです(自分は才能のある選ばれし者ではなくて、成功できないかもしれないという疑念)。『わたしの名は赤』の犯人はこの問題で自分に負けてしまいます。

わたしの名は赤_オルハン・パムク_ノーベル・レクチャー

オルハン・パムクさんは、ノーベル・レクチャーの中で「the fear that I lacked authenticity(自分にはAuthenticityがないという恐怖)」について語っています。

アイデンティティーの問題は、文学で何度も取り上げられてきた重要なテーマなのかもしれませんが、もはや「あるある」と言っても過言ではく、そろそろ新しい話を読みたいなという気持ちも正直あります。

オルハン・パムクさんは、アイデンティティーの問題をAuthenticityの問題へと発展させており、そのことが私の需要に突き刺さりました。そのためもあり、『わたしの名は赤』は個人的にとても好きな作品です。

ミステリー × Authenticity

オルハン・パムクさんは、『わたしの名は赤』で、Authenticityの問題を犯人捜しのミステリーにも重ねていると思われます。

本作は大部分が「I am 〇〇」というタイトルの章で構成されており、〇〇にはバタフライ、ストーク、オリーブはもちろん、Corpse(死体=死後のエレガントが語る)、Murderer(殺人の犯人)、他の登場人物、さらには犬、木、金貨などが代入され、それぞれの視点から多角的な語りが展開されます。

つまり、構造的には以下のように、犯人の語りが二つあることになります。

  • I am 犯人の名前
  • I will be called a murderer(私は殺人者と呼ばれるだろう)

この構造は、前述の「Double View」と重なって見えます。

ただ、これだけだとアイデンティティーの問題にも見えるので、才能の問題も関わっていると思われる記述を以下に引用します。

〇〇 is not as talented as is assumed, he’s merely eager. He tries to cover up for his lack of talent with adoration of the old masters.
(〇〇は[皆に]思われているほどの才能はない、ただ熱心なだけだ。彼は過去のマスター達を崇拝することで才能の欠如を誤魔化そうとしている)

これらを併せると、Authenticity = Identity + Talent、と分解できるのだと思います。

他にも「Double View」や「Authenticity」に重ねられそうなものがあるので、以下に列挙してみました。

  • those words, signs of my second character(これらの言葉、つまり私[犯人]の二つ目のキャラクターの印)(作中)
  • 本物のコインと偽物のコイン(作中)
  • 父には自分の知らなかった別の一面があるかもしれないという疑念(ノーベル・レクチャー)
  • 自分にはAuthenticity(Identity + Talent)がないかもしれないという恐怖(ノーベル・レクチャー)
  • イスタンブールは東と西が出会う場所(地理的事実)

Try to discover who I am from my choice of words and colors
(私が用いる言葉と色から、私が誰かを見つけてみよ)

犯人のこの台詞は、表面的には、アイデンティティーの問題をミステリーに重ねているように見え、小説も娯楽の一種と考えれば、入口のハードルを下げるという意味で、上手い書き方だと思います。

一方で、少し反則的かもしれませんが、ノーベル・レクチャーという外部から、新たな情報を取って来ることで、水面下にAuthenticity (Identity + Talent)という問題が潜んでいるんじゃないか?と推理できると思います。

表面はエンタメ、裏面は人間の核心に迫る深いテーマ、という二面性は、『わたしの名は赤』を名作たらしめている一因になっていると思います。

ここで再び偽物のコインについて。本作の最終章では、以下のように書かれています。

Coins counterfeited by the Venetians are everywhere
(ヴェネツィア人が作った偽コインがあちこちにある)

『わたしの名は赤』の時代設定は1591年、つまりレパントの海戦(1571年)の20年後であり、オスマン帝国の絶頂期を過ぎたタイミングに当たります。

上記引用文は、もはやオスマン帝国が西洋的なものの流入を防ぎきれず、隅々まで侵食されていること、ひいては「Double View」や「Authenticity」の問題が、つまりは現代まで続くイスタンブールの運命が、確定してしまったことを示唆しているのかもしれません。

オルハン・パムク公式サイト_わたしの名は赤

『わたしの名は赤』は雪の9日間の物語です(本作を読むだけではわかりにくいですが、公式サイトにそう書いてあるので、そうなのでしょうw)。

なぜ、雪なのか?

そのヒントが『イスタンブール』にあったので、以下に列挙します。

オルハン・パムク_イスタンブール_雪の記述1

オルハン・パムク_イスタンブール_雪の記述2

オルハン・パムク_イスタンブール_雪の記述3

「1週間から10日」は正に9日間なので、これは偶然ではなく意図的な設定と考えてよいと思います。

また、その他の表現(new、disaster災害、stranded座礁、outpost前哨基地)から、オルハン・パムクさんはイスタンブールの雪に対して、非日常や危機的状況の様なイメージを持っていると思われます。

ところで、Kindle内を「snow」で検索してヒットしてみたろころ、いくつか気になる箇所があったので、ピックアップしてみました。

  • A faint snow fell.
  • the snow hadn’t yet begun to fall.
  • a very faint snow fell
  • “It’s begun to snow again.”
  • It was snowing so hard that snowflakes occasionally passed right through my veil into my eyes.
  • The snow had stopped and the sun had begun to shine.

もしかしたら、雪の強弱が、物語の状況と対応しているのかも?

また精査しきれていないのですが、着眼点の一つとして、再読時のための備忘録的に記しておきます。

「赤」が意味するものとは?

『わたしの名は赤』の「赤」は何を意味しているのでしょうか?

少なくとも私が気づいた範囲では、作品内には明記されていなかったと思います。

したがって、「赤」の意味は読者自身で考えたり、外部からの情報をヒントに考えるしかなさそうです。

個人的には、「赤」は「雪」と関係があるんじゃないかと思っています。前述のとおり、『わたしの名は赤』は雪の9日間の物語なので、「雪」というキーワードは無視できないと思うからです。

そこに、オルハン・パムクさんが雪に対して持っているであろう、非日常や危機的状況というイメージを踏まえると、以下のように言えるかもしれません。

「赤」は血、命、愛、情熱、怒り、革命など様々なものを表しつつも、一番はAuthenticity Crisisという危機的状況を表している。

つまり、Red = Authenticity Crisis、というわけです。

ちなみに、英語版『My Name Is Red』の中では「red」と「Red」の二つの表記がありました。「Red」の方が犯人特定に繋がる赤を指しているのかなとも思ったのですが、「red」にもそのような文脈で使われているところがあり、明確に使い分けられているわけではなさそうです。

直近はオーディブル版を聴き、活字版を読んだのは10年以上前なので、まだ十分に精査できていないのですが、次に活字版を再読することがあれば、「red」と「Red」に注目して読みたいと思っています。

私はトルコ語は全くわからないのですが、トルコ語原文はどうなっているのでしょうね?

日本語版は『わたしの名は赤』と『わたしの名は紅』の二種類があり、どちらも読んだことがないのですが、それぞれの翻訳者さんはどういう意図で訳しているのでしょう?もしかして、「red」は「赤」、「Red」は「紅」と対応していたりするのでしょうか?

まだ結論は出せていないのですが、着眼点の一つとして、メモ的に記しておきます。

自分にない発想

最後に、小学生並みの感想かもしれませんが、日本に生まれて西洋の影響を強く受けている自分には、画家本人の個性やオリジナリティが悪とされたり、失明は良いこととされたり、他にも色々、イスラムの価値観が衝撃的で、想像の斜め上すぎて、自分の価値観をぶっ壊されるようで、目が覚める思いでした。

自分の価値観が正しいと決めつけず、自分とは全く違う価値観の人もいるのだと、一歩引いて想像力を働かせてみようと、自分へ注意喚起するためにも、『わたしの名は赤』を読んだときの衝撃は忘れないようにしたいと思います。

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