排蘆小舟
「物のあはれ論」エピソード0
『排蘆小舟(あしわけおぶね)』は本居宣長さんの歌論です。宝暦13年= 1763年(34歳)までには書かれていたと考えられ、本居宣長さん前半生の著述になります。
ただし、本作は十分な理論的準備なしに執筆が開始され、最終的には未定稿。理論の完成度よりも、果敢に挑戦して行く心意気が魅力です。
タイトルは葦原を分けて漕ぎ進む小舟に例えて付けられたそうです。
『排蘆小舟』で「物のあはれ」というキーワードが登場するのは2回。この時点ではまだ「物のあはれ論」までは発展していない萌芽で、いわば「物のあはれ論」エピソード0。
これが後の『石上私淑言』と『紫文要領』で「物のあはれ論」へと昇華され、さらには『源氏物語玉の小櫛』での『源氏物語』解釈に繋がっていくことになります。
主旨:歌はただ心に思うことを言うより外なし
本居宣長さんの主張を私なりに以下にまとめました。
- 歌はただ心に思うことを言うより外なし。
- 歌はまず、心に思うことを言葉にして、その思いをはらすもの。政治や教戒のためにあるわけではない。
- 歌の内容が多様なのは、人が様々なことを思うから。
- 恋の歌が多いのは、恋の感情が人の心に深く沁み、心に留めておくには堪え難いから。
- 人は全員が聖人ではない。善いことも悪いことも思う。それらがそのまま歌になる。
- 歌はただの道具。善悪を議論する場ではない。物のあはれを知るべし。
- 歌は言葉の道。ただ心に思うことを言うだけでは足りず、言葉を整えて初めて歌になる。心と言葉の両方が優れていれば鬼神をも感ぜしむ。
個人的に重要だと思ったのは、以下の2点です。
- 心に留めておくには堪え難い
- 物のあはれを知るべし
これらは『石上私淑言』で展開される「物のあはれ論」の萌芽であり、『排蘆小舟』を「物のあはれ論」エピソード0と言える理由になると考えます。逆に言うと、その他の理論はこの時点で完成していたとも言えると思います。
町人、本居宣長
『排蘆小舟』は全体的に町人としての立場で書かれている印象を受けます。
ただし、以下に引用した古今和歌集の仮名序の冒頭など、文書を根拠に持論を展開する箇所もあり、それは本居宣長さんの持つ学者的な一面を表していると思います。
古今和歌集の仮名序の冒頭:やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、男女の中をもやはらげ、たけきもののふの心をも、慰むる歌なり。
※ことわざしげき:(かかわる)行為がたくさんある
この学者面は次作『石上私淑言』でより顕著になります。
石上私淑言
物のあはれ論 1.0
『石上私淑言(いそのかみささめごと)』も引き続き本居宣長さんの歌論です。こちらも宝暦13年= 1763年(34歳)までには書かれていたと考えられ、本居宣長さんの前半生に書かれた未定稿です。
関連作品を以下に整理しました。
- 排蘆小舟(未定稿):物のあはれ論エピソード0
- 石上私淑言(未定稿):物のあはれ論1.0
- 紫文要領(未定稿):物のあはれ論1.0を『源氏物語』解釈に応用
- 源氏物語玉の小櫛(確定稿):『紫文要領』の完成版。内容に大きな違いはない。物のあはれ論1.1。
上記1, 2, 3は宝暦13年= 1763年(34歳)までに書かれ、4は寛政8年=1796年(67歳)に完成。
その間が30年以上空いていることが目を引きますが、その間、本居宣長さんは『古事記伝』の執筆に注力していたそうです(『古事記伝』は寛政10年=1798年[69歳]に完成)。
『古事記伝』の背景にはその前に書かれた『石上私淑言』があり(後述)、また、『紫文要領』が『源氏物語玉の小櫛』として完成できた背景には『古事記伝』の影響があるのかもしれません(『古事記伝』は未読なので違ったらすみません)。
なお、『石上私淑言』という難しそうなタイトルの意味は序文に明かされています。
序:いそのかみふりにし世の心にたちかへりて、中今の世の歌人に、ささめごとのやうにときさとされたる書なむ有りける。
※いそのかみ:奈良県天理市石上神宮の辺り。枕詞として地名「布留」と同音の「ふる(降る・古る)」にかかる。ここでは「神」にもかかっているのだと思います。
※ささめごと:小声でひそかにする話。
私なりに要約すると、神々の時代の(正しい)心に立ち返って、(歌の何たるかを理解していない現代人を)解き諭す書、というところでしょうか。
主旨:歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也
本居宣長さんの主張を私なりに以下にまとめました。
- 歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也。
- 『排蘆小舟』の「心に思ふこと」は『石上私淑言』で「物のあはれを知る心」へと発展。
- 物のあはれを知るとは、嬉しいことを嬉しいと、悲しいことを悲しいと思うこと(喜怒哀楽の哀だけに限らない)。
- 物のあはれを感じ、心に留めておくには堪えがたく、身の上に預かりきれないものが、自然と綻び出る言葉、その声を長くして出すのが歌。
- 物のあはれを知るとは、人の気持ちがわかるということ。物のあはれを知る心があれば、自然と道徳もついてくる。
- 歌は情から出るもの、非情のものからは出ない(獣鳥虫の声が歌になるかは情の有無で判断)。また、歌は心を言葉で整えたもの。情があっても言葉が整ってなければ歌ではない。
- 独り言のような歌で心がはれぬときは、人に聞いてもらうとよい。その人に共感してもらえるとなおよい。そのためには、心に思うことをそのまま出さずに言葉を整えること。
詩は志、歌は心
詩は志を言うもの、歌は(心の)声を詠ずる(永く/長く言う)もの。
詩は志。中国では漢詩が政治や教誡に用いられた。ただし中国は中国、日本は日本。中国だから正しいとして妄信するのは間違い。
歌は心。心が感じることは様々。それがそのまま歌になる。儒仏の教えに照らして善き悪しきというものではない。多様な歌の中に政治や教誡を扱ったものがあるだけ。
「詩は志、歌は心」という論が印象に残ったので、ここに整理しました。特に「歌は(心の)声を詠ずる(永く/長く言う)もの」というのは「物のあはれ論」とも合致し、説得力があります。
物のあはれを感じ、心に留めておくには堪えがたく、身の上に預かりきれないものが、自然と綻び出るとき、それは「ああ」という嘆息の声となり、スタッカート(音を切ること)ではなくテヌート(音を伸ばすこと)のはずで、「詠」の字のへん(左側)とつくり(右側)にも納得です。
この長く伸ばす音に言葉を与えたものが「歌」というわけですね。そう考えると、本居宣長さんの「歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也(政治や教戒のためものもではない)」という主張も府に堕ちます。
『石上私淑言』からの発展
『石上私淑言』上巻でほぼ「物のあはれ論」の全容は明らかにされています。この「物のあはれ論」は『紫文要領』で『源氏物語』解釈へと応用され、後の確定稿『源氏物語玉の小櫛』へと結実していくことになります。
『石上私淑言』下巻は「倭歌」「和歌」から「和」「大和(やまと)」「日本」という国号の問題に発展(全頁数の半分以上)。これが後の『古事記伝』へ繋がっていくと思われます。
学者、本居宣長
『排蘆小舟』は全体的に町人としての立場で書かれている印象を受けましたが、『石上私淑言』では文献考証的な面が強まり、学者としての立場で書かれているような印象を受けます。
この背景には契沖さん(江戸時代中期の真言宗の僧、国学者、歌人)の存在があると思われます。
学問に通じ、すべて古書を引証し、中古以来の妄説をやぶり、数百年来の非を正し、万葉よりはじめ多くの註解をなして、衆人の惑ひをとけり。
本居宣長さんは契沖さんを尊敬しているようで、『石上私淑言』の中で上記のように書いています。
本居宣長さんが『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』でやったことというのも、要はこういうことで、上記引用部分はそれを端的に要約していると思います。
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