金閣寺:あらすじ・感想・考察 三島由紀夫

金閣寺 三島由紀夫 日本

『金閣寺』とは?

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新潮社

『金閣寺』は三島由紀夫さんの代表作、日本文学史上における最高傑作の1つ、さらには世界的にも高く評価されている名作中の名作です。

1956年の『新潮』で10カ月連載された後、同年に刊行されました。

1950年の金閣放火事件を題材にしつつ、独自の創作も加えられ、作者の美学や思想が反映された作品として知られています。

『金閣寺』のあらすじ

主人公の溝口は田舎の寺に生まれ、幼い頃から父に「金閣ほど美しいものはない」と聞かされ育ちます。また、生来の吃音と醜い外見からコンプレックスを持ち、美人の有為子にも嫌われ、暗い思春期を過ごします。

そんな溝口は父の友人が住職を務める金閣寺で僧として修業させてもらうことになります。やっと対面できた金閣寺は想像よりも美しくありませんでした。やがて戦争が始まると、金閣寺も自分と同じく焼け死ぬ運命にあるのかもと、金閣寺と対等になれたと錯覚。しかし、戦争で金閣寺は焼失せず、金閣寺に拒絶されたと感じます。

溝口は、金閣寺の徒弟かつ友人の鶴川、大学の友人の柏木、その他何名かの女性と出会い、日々を重ねて行きます。その中で金閣寺のイメージがどんどんと肥大化し、実生活の邪魔になっていると感じた結果、「金閣を焼かなければならぬ」と決意。そして決行の日がおとずれます。

『金閣寺』の感想・考察

金閣寺を焼いた本当の理由

『金閣寺』は既読だったのですが、主人公の溝口は結局なぜ金閣寺を焼いたのか?その記憶があいまいで、今回の再読時にはそこに注意して読んでみました。

でも結局、主人公の溝口がなぜ金閣寺を焼いたのか、その答えはよくわかりませんでした。

一般的には「美への嫉妬」的なことが言われていますが、本当にそうなのか、小説に書いてあることからそう読み取るには、イマイチ確信を持てなかったんです。

というのも、溝口は犯行直前に「世界を変えるのは行為ではなく認識、行為は余剰物、徒爾(とじ=無意味なこと)」と結論づけ、このまま犯行をしなくてもよいと思います。この時点で、「美は怨敵」を含むあらゆる理由は消滅しているはずです。

でもそこからなぜか「徒爾だからやるべき」となって犯行に至る。ここがわからなかったんです。

冒頭で溝口は「人に理解されないことが唯一の矜り」とも言っているので、そことの一貫性で金閣寺を焼く理由も謎なのかも?

トルコのノーベル文学賞受賞作家オルハン・パムクの『Snow』最終章で、トルコの田舎カルスに住む元イスラム原理主義者の青年が語った言葉を思い出しました。

“If you write a book set in Kars and put me in it, I’d like to tell your readers not to believe anything you say about me, anything you say about any of us. No one could understand us from so far away.”
「もしあなたがカルスを舞台に本を書き、私をその中に登場させるなら、私はあなたの読者に伝えたい、筆者が私について書いたあらゆること、私達の誰かについて書いたあらゆることを信じるな、と。そんな遠くからでは、私達のことは理解できない。」

メモ:南泉斬猫
南泉斬猫は金閣寺の老師の講話。内容は難しいのでここでは省略しますが、作中では、世界を変貌させるのは認識か?行為か?という問いに言い換えられています。

この問いに対し、溝口は行為、柏木は認識と主張しますが、溝口は金閣寺への放火直前に、認識へと考えを改めます。

なぜ有為子という名前なのか?

有為子って変わった名前ですよね。三島由紀夫さんはなぜ有為子という名前にしたのだろう?と思って「有為」を調べてみると、

有為:仏語。直接、間接の諸条件、すなわち因、縁の和合によって作られている恒常でないもの。また、そういう現象。有為法。これを越えた常住不変の絶対的存在である無為と対する。(精選版 日本国語大辞典)

辞書の説明が難しいですが、作中で有為子と金閣寺が重なる感じがあるので、有為子は有為(現実)、金閣寺は無為(幻影)で、ポジとネガ的な関係になっているように思いました。

次に再読するときは、有為子の死後のページは、「金閣」を「有為子」に読み替えて読んでみると面白いかも?

なぜ溝口という名前なのか?

有為子の名前に疑問を持ったことから、三島由紀夫さんはなぜ溝口という名前にしたのだろう?とも思いました。

溝とは隔たりのことで、現実に上手く適応できない様や、好きな有為子や金閣寺に拒絶される様を「溝」としているのかもしれません。

溝のつく苗字としては割と自然に「溝口」が思いつきます。また、主人公は吃りなので、口と現実の間に溝があって上手く話せないことを溝口で暗示(というか明示?)しているのかも?

登場人物の役割

鶴川

溝口と友人の鶴川は写真のポジとネガの関係と明記されていて、ポジの鶴川は自殺。となると、ネガ側の溝口は生きることになり、それが本作最終行の「生きようと私は思った」と対応しているように思いました。

柏木

溝口の悪友、柏木に『ドリアン・グレイの肖像』でドリアンを悪の道に誘惑する逆説王子ヘンリー・ウォットン卿を感じます。特に、柏木が「われわれが突如として残虐になるのは、うららかな春の午後(逆説)」と言い、溝口がそんなときに初めて「金閣を焼かねばならぬ」と思うところに。でも、ドリアン・グレイは罪の罰(良心の呵責)を感じるけど、溝口にはそれがないところは真逆ですね。

溝口、有為子、鶴川、柏木のそれぞれに意味がありそうだし、おそらく父、母、和尚など他の登場人物にも作者が担わせた役割がありそうです。

美は怨敵

溝口は有為子の体を想い、謎の行動に出てしまい、本人に拒絶され、大人に告口される。その後、愛が憎になり彼女の死を願う。

溝口は戦争で金閣もろとも滅びる(一つになる)ことを夢見るが、戦争は終わり、金閣は焼かれず、その夢を断たれる(拒絶される)。

その後、金閣は度々現実に介入してきて人生の邪魔になるので、邪魔しいないようにいつか支配してやると思い、それがエスカレートして「金閣を焼かなければならぬ」となる。

有為子と金閣の重なりから推測すると、金閣に対しても愛が憎になったのかも?実際、溝口は「美は怨敵」と言うようになりますし。

愛が憎に反転するところは、オスカー・ワイルドの『サロメ』と共通していると思いました。

ここまではわかるんですけど、でも前述のとおり、犯行直前に「行為は余剰物、徒爾(とじ=無意味なこと)」とし、このまま犯行をしなくてよいと溝口は思います。

ここで結論が出ているはずなのに、行為は徒爾のはずなのに、なぜ「徒爾だからやるべき」となるのか?ここが未だにわからずにいます。

吃り

三島由紀夫さんはなぜ溝口を吃りの設定にしたのか?

実際の犯人にも吃りがあったようですが、本作は(実際の事件をベースにしつつも)あくまでもフィクションであり、三島さんは吃りという設定に重要な意味を持たせているように思います。

その吃りは、内界と外界の間の障害、扉が開かない、言葉が出たときもう現実は先に進んでいて「感情はいつも間に合わない」と表現されています。

金閣放火後、溝口は三階で死のうと思っていたけれど、三階への扉の鍵は開かない。ここは金閣から再び拒絶されることを示すだけのシーンではなく、「扉」という共通のキーワードから、吃りの扉が開かないこととも対応しているのでは?とふと思いました。

金閣を焼く前後で、吃りという現実は変わらないけど、焼いた後は認識が変わり「生きようと私は思った」。おそらく「感情はいつも間に合わない」ままではあるけれど、認識が変わっているから大丈夫。だから溝口は生きることを選んだ。

恩田陸さんの解説に、「生きるために」「金閣を焼かなければならぬ」とあったのをヒントにして、本作最終行の「生きようと私は思った」から逆算すると、金閣を焼いた本当の理由は「生きるため」となるのかも?

溝口が金閣を焼こうとしていたとき、焼いているそのとき、溝口は「生きるため」にやっていたはずはないから、これは後付けなんだけど、溝口にとっても、読者にとっても、結果的に「生きるために(邪魔な幻影を消すために)金閣を焼いた」ということなのかも?

小林秀雄『モオツァルト』

吃りの「感情はいつも間に合わない」からは、小林秀雄さん「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」を思い出しました。

アンリ・ゲオンさんの『モーツァルトとの散歩』にある、「足どりの軽い悲しさ(tristesse allante)、言いかえれば、爽やかな悲しさ(allegra tristesse)」。小林秀雄さんはこれを『弦楽五重奏ト短調 K.516』の第一楽章(アレグロ)を例にして、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」と言い換えた有名な一文です。

※『モーツァルトとの散歩(日本語版)』を読むとアンリ・ゲオンさんは『フルート四重奏ニ長調 K.285』の第一楽章(アレグロ)のことを言っているようにも読めるんだけど、ここでは深く立ち入らないことにします。『モーツァルトとの散歩』の原文を読まないと解決しなそう。

「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」の解釈は難しいですが、モーツァルトは超天才だから誰とも分かり合えない究極の孤独状態にある→これを「かなしさが疾走する」状態とする→涙を凡人の感情とすると、凡人に超天才の悲しさはわからない?

溝口の「感情はいつも間に合わない」の悲しみも、健常者(かつ溝口ほど容姿が醜くない普通の[恵まれた?]人)にはわからない?

モーツァルトのかなしさは現実より先に進んでいるものなのに対し、溝口の感情は現実より遅れているもの。方向性は真逆だけど、現実とずれているところは共通点なのかなと思いました。

モーツァルトのかなしさは疾走しているから、母の死みたいな悲しいことがあって一瞬テンポがアダージョ(遅い)になっても、すぐアレグロ(速い)に戻る。

溝口の吃りは金閣放火前後で不変だけど認識は変わった。死のうとしていた放火前はアダージョ、生きようと思った放火後はアレグロ。古い楽章が終わって、新しい楽章が始まった。

金閣放火はやっちゃダメなんだけど、小説だからそれは何かの比喩として流すことにすると、『金閣寺』は生きることを邪魔してくる幻影を焼き払って、自分の人生を生きることにした男の話、のように思えてきます。

読者に置き換えると、自分にとっての幻影(息苦しさを作っている世間の古い常識や、こうあるべきという思い込みなど)を焼き払うことで、少しでも前向きに楽しく生きれるようになるのかもしれません。自分の幻影を焼き払おう。

まずは刑務所だし、出所後も色々大変だろうし、読者にとっても生きることは色々大変だろうけれど。だから曲は短調で「足どりの軽い悲しさ(tristesse allante)、爽やかな悲しさ(allegra tristesse)」ではあるけれど。このように「~けれど」という条件が付いてくるところが「いとかなし」だけれど。それが人生と言われればそのような気がします。

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