この記事は↑のまとめ記事から切り出した詳細記事です。
『夜はやさし』とは?
he must be less intact, even faintly destroyed.
もっと傷をうけ、ちょっとはこわれたところがあってしかるべきだ。
He knew, though, that the price of his intactness was incompleteness.
もっとも自分の不完全さは傷をうけたことがないためだと、ちゃんと承知してはいた。
『夜はやさし(Tender Is the Night)』は、1934年に発表されたスコット・フィッツジェラルドさんの4th長編です。
アメリカのバブルが弾け、妻ゼルダさんは統合失調症、自分はアル中、社会も私生活も崩壊中に書かれました。
いつも通り、今作もバッドエンディングの悲劇です。スコット・フィッツジェラルドさんは人生そのものが悲劇的で、実体験を元に書くタイプなので、作品は自動的に悲劇になります。
『夜はやさし』のあらすじ
主人公のディックはイケメンで将来も有望な若手精神科医。ヒロインのニコルは上流階級の美女だが、父親からの性的虐待で統合失調症になりスイスの療養所にいた。2人が出会うと、医師と患者という関係ながら恋愛に発展する。
そんな中、有能なディックに精神科のクリニックを開業しようというパートナーシップの話が持ち上がる。ディックはニコルと結婚し、ニコルの資産からクリニックに必要な費用が支払われることになる。
南仏のリゾート地リヴィエラで過ごしていたディックとニコルは、アメリカ人の若手美人女優ローズマリーと出会う。2人はローズマリーが憧れるほど輝いている夫婦だったが、ディックはローズマリーと、ニコルはフランス人と、不倫を始める。
ニコルの統合失調症は回復するが、ディックはアルコール中毒もありどんどん落ちぶれていく。ディックはニコルを看病している間に若さも失っていた。崩壊は止まらない。
『夜はやさし』の背景
スコット・フィッツジェラルドさん(と妻ゼルダさん)の人生の浮沈はアメリカの景気と重なっていて、二人の手紙集の1920年代はThe Years Together、1930年代はBreaking Down(崩壊)とタイトルが付けられています。
本作4th長編『夜はやさし』は、その崩壊期に書かれました。
手紙集を読む限り、崩壊とは主には妻ゼルダさんの統合失調症のことを指しているようです(スコット・フィッツジェラルドさんもアルコール中毒になったり、お互いに喧嘩したりもしていますが。3rd長編『グレート・ギャツビー』の後2人とも不倫しているのは残念です…)。
統合失調症が悪化して、文字を真っ直ぐ書けてないゼルダさんの手紙は衝撃的です…そんなゼルダさんとそれを読むスコット・フィッツジェラルドさんの気持ちを想像すると悲しくなります…
しかし、それでも2人はお互いを大切に想い愛しあっている印象を受けます。あんなに沢山の手紙を書いて、毎回違う表現でI love you的なことを言える発想力は凄い。私はこんなに人を愛したことがないと思いました。
4th長編『夜はやさし』と4th短編集『Taps at Reveille』の後、ゼルダさんの統合失調症は更に悪化、スコット・フィッツジェラルドさんのアル中も悪化、結核も再発、金もない、二人の人生は崩壊期の末期へと進んで行きます。
「Of course all life is a process of breaking down(もちろん人生とは崩壊の過程である)」で始まるエッセイ『壊れる(The Crack-Up)』(1936年発表)はこの時期に書かれました。同エッセイ内の以下の表現は天才だと思います。
I began to realize that for two years my life had been a drawing on resources that I did not possess, but I had been mortgaging myself physically and spiritually up to the hilt.
私はこの2年は所有していない資源を使っていたことに気づき始めた。私は自分を抵当に入れ(未来の)肉体と精神を徹底的に前借りしていた。
エッセイ『壊れる(The Crack-Up)』は、以下のエッセイ及び短編集に収録されています。
4th長編『夜はやさし』も3rd長編『グレート・ギャツビー』と同じくあまり売れませんでした。その理由についてアーネスト・ヘミングウェイさんは「スコット・フィッツジェラルドは20年代バブルのシンボルだからバブル崩壊後の30年代的には過去の人、だから当時の評価が低かった」と考えていたようです(英語版Wikipedia)。
『夜はやさし』を原書で読んだ感想・考察
オリジナル版と改訂版
4th長編『夜はやさし』にはオリジナル版と改訂版があり、どちらを読むかで印象がまったく違ってきます。
オリジナル版(↑の英語版)の特徴は物語が時系列ではないことです。フランスのリゾート地リヴィエラで、華やかでハッピーな状態から始まり、途中で過去の回想が挟まれます。また、若くて美しい女優ローズマリーが目立ち、誰が主人公なのか、さらには本作のテーマは何なのがわかりにくいです。私は先にオリジナル版を読み、正直あまり良いと思わなかったのですが、その原因はこのあたりにあるのかもしれません。
改訂版(↑の日本語版)の特徴は物語が時系列なことです。そして、人には人生で一回くらい絶頂期がある(その後の衰退を示唆)、傷ついた経験のない人間は不完全、不幸も体験した方がいい、というような本作の主題らしきものが序盤で示されます。道標があるので、横道的なエピソードで話が長くなっても、迷子にならず自然に読めました。
時系列の違いで印象が変わるのは面白いですね。個人的には改訂版の方が好きです。
『グレート・ギャツビー』と『夜はやさし』の違い
前作3rd長編『グレート・ギャツビー』は、一文目から名文に魅了され、最初から最後まで完璧でした。いわば、美しく無駄のない細マッチョ、ミケランジェロのダビデ像のイメージ。破滅の仕方も劇的で絵になって完璧だと思います。
今作4th長編『夜はやさし』は、3rdのような吸引力、劇性、派手さはなく、最初から最後まで淡々と、寄り道も挟みながら、少しずつ崩壊して行きます。いわば、無駄な脂肪のあるビール腹、どうしようもないダメおじさん。欠点もある、でもそれが人間、それが染みる。
正直、『夜はやさし』はあまり良いと思えませんでした。世間で良いとされている上記のロジックは頭ではわかるんですけど、本心から理解するにはまだ時間がかかりそうです…
(シンプルに、ビール腹おじさんより、ダビデ像の方が良くないですか?ビール腹おじさんも人間の一形態ではあるけど、ダビデ像とビール腹おじさんが対等または後者の方が良いという価値観は、なかなか特殊な性癖だと思います…)
別の例えだと、グレート・ギャツビーは濃茶、夜はやさしは薄茶とも言えるかもしれません。
●濃茶(例:グレート・ギャツビー)
その部分が他の部分と有機的に関連し後に劇的な効果を発揮する。掛け算。前振りと回収。最短距離。速効性。
●薄茶(例:夜はやさし)
その部分は(基本的に)単独で存在し他の部分とは(あまり)関連しない。足し算。ちりつも。寄り道。遅効性。
スコット・フィッツジェラルドさんは、3rd長編『グレート・ギャツビー』で濃茶は書いたから、4th長編『夜はやさし』では薄茶を書きたかったのかもしれません。
濃茶と薄茶は次の2種類の崩壊に対応していると思います。
2種類の崩壊
スコット・フィッツジェラルドさんはエッセイ『壊れる(The Crack-Up)』(1936年)で「Of course all life is a process of breaking down(もちろん人生とは崩壊の過程である)」と書き、その後、
「崩壊を引き起こすblow(一撃、強打、ショック)には2種類あって、一つは外側から突然来る劇的なもの、もう一つは内側からじわじわ進行して手遅れになるまで気付けないもの」と説明を続けます。
3rd長編『グレート・ギャツビー』を前者、4th長編『夜はやさし』を後者と考えると、作品のイメージがよりつかみやすくなるかもしれません。
次作5th長編『ラスト・タイクーン』の記事はこちら
スコット・フィッツジェラルドさんのまとめ記事はこちら
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