楽園のこちら側:あらすじ、原書で読んだ感想・考察(スコット・フィッツジェラルドデビュー作)

楽園のこちら側 アメリカ
スコット・フィッツジェラルドの全長編&短編集を原書で読んだ感想・考察
感想・考察の根拠には、スコット・フィッツジェラルドさんのエッセイや手紙、ヘミングウェイさんの視点、映画、ドラマなど、アクセスできるものを可能な限り利用しました。

この記事は↑のまとめ記事から切り出した詳細記事です。

『楽園のこちら側』とは?

Seek pride where discover it for to-morrow die.
明日死んでもいいように快楽を求めろ。

A social revolution may land me on top.
社会革命が起きれば僕は頂点に立てるかもしれません。

I’m in love with change and I’ve killed my sense of right and wrong.
僕は変化に酔いしれ、そして自分の良心を葬ったのです。

『楽園のこちら側(This Side of Paradise)』は、1920年に発表されたスコット・フィッツジェラルドさんの1st長編(デビュー作)です。

狂騒の20年代前夜、スコット・フィッツジェラルドさんのデビュー作は、戦争に人生を壊され、親世代の価値観に懐疑的になった若者に刺さり大ヒットしました。

スコット・フィッツジェラルドさんはこの一冊で時代の寵児へと成り上がります。

『楽園のこちら側』のあらすじ

主人公のエイモリーは上流階級に生まれた美青年。他人は自分の意志で動くロボットで、世界の頂点に立ちたいと思っています。そんなエイモリーは名門プリンストン大学に入学し、人生の絶頂期を謳歌します。

しかし社交界でイザベルとの恋愛に失敗、大学の出世街道からも脱落、父が死に経済的な後ろ盾も失います。さらには戦争、母の死、金欠。プリンストン大学を退学し、楽園追放となります。

エイモリーは社交界の絶世の美女ロザリンドに恋をしますが、経済力不足を理由に再び失恋。ショックから酒浸りの日々を過ごし、仕事も辞めてしまいますが、禁酒法をきっかけに立ち直り、たくさんの本を読みます。

自分はエゴイストか天才か?エイモリーは才能のある芸術家が労働に忙殺される資本主義に疑問を持ち、唯一の解決策は社会主義と主張します。しかし現実は…

『楽園のこちら側』の背景

『楽園のこちら側』は、Book 1とBook 2の2部構成になっています。

Book 1のタイトルはThe Romantic Egoistで、これはスコット・フィッツジェラルドさんが後の妻ゼルダさんと出会う前に書き、出版社に送り、不採用になった部分です。

ヒロインのイザベラはスコット・フィッツジェラルドさんのプリンストン大学時代の恋人ジネヴラ・キングさん(金持ちの令嬢)です。

彼女の父から「poor boys shouldn’t think of marrying rich girls.」と言われスコット・フィッツジェラルドさんは失恋。

おそらくはこれが原体験の1つとなり、スコット・フィッツジェラルドさんは富裕層を嫌悪するようになり、それが作品にも表れるようになります。

Book 2のタイトルはThe Education of a Personageで、後の妻ゼルダさんと出会った後に書かれました。エンディング付近の大事なところではゼルダさんからの手紙をほぼ丸々パクって完成。Book1とBook 2の合わせ技で出版社に採用されることとなりました。

ヒロインのロザリンドはもちろんゼルダさんがモデルです。

当時のスコット・フィッツジェラルドさんは、ニューヨークで広告代理店に勤めながら執筆に励んでいました(短編を含む)。英語版Wikipediaによると、120回却下され、売れたのは短編1つだけ、たったの30ドル。経済的に安定しないためゼルダさんとの婚約は解消されてしまいます。

そんな中で『楽園のこちら側』が奇跡を起こします。英語版Wikipediaによると、当時は5000部売れれば大ヒットだったところを、2週間で2万部、1年で4万部売れたそうです。こうしてスコット・フィッツジェラルドさんは、戦争に人生を壊され、過去に絶望し、未来へ進む若者達の代表、ロックスターのような存在になります。

経済的問題をクリアしたスコット・フィッツジェラルドさんはついに念願のゼルダさんとの結婚を果たします。

『楽園のこちら側』を原書で読んだ感想・考察

楽園のこちら側とは具体的にどこのこと?

楽園のこちら側とは現実世界のことで、逆に、あちら側とは愛し合う2人が墓地で永眠する死後の世界(=楽園)のことと推測します。

推測のヒントになったのは、スコット・フィッツジェラルドさんが妻ゼルダさんの手紙からほぼそのままパクって採用した以下の記載です(本作のエンディング付近の大事なところ)。

▼ゼルダのさん手紙:To Scott (After April 15, 1919)
I wanted to feel “William Wreford, 1864.” Why should graves make people feel in vain? I’ve heard that so much, and Grey is so convincing, but somehow I can’t find anything hopeless in having lived—All the broken columnes and clasped hands and doves and angels mean romances— and in an hundred years I think I shall like having young people speculate on whether my eyes were brown or blue—of cource, they are neither—I hope my grave has an air of many, many years ago about it—Isn’t it funny how, out of a row of Confederate soldiers, two or three will make you think of dead lovers and dead loves—when they’re exactly like the others, even to the yellowish moss?

Old death is so beautiful—so very beautiful—We will die together—I know— Sweetheart—

▼『楽園のこちら側』原文
Amory wanted to experience “William Dayfield, 1864.” He questioned that graves ever made humans don’t forget life in vain. Somehow he could discover not anything hopeless in having lived. All the damaged columns and clasped arms and doves and angels supposed romances. He fancied that during a hundred years he would like having younger people speculate as to whether his eyes have been brown or blue, and he was hoping pretty passionately that his grave might have approximately it an air of many, many years ago. It regarded unusual that out of a row of Union squaddies two or 3 made him think of useless loves and dead lovers, after they have been exactly like the rest, even to the yellowish moss.

▼『楽園のこちら側』和訳
エイモリーは「ウィリアム・デイフィールド、一八六四年没」と刻まれた墓碑に触れたかった。
墓は常に、人々に人生の儚さを考えさせるものなのではないかと彼は思った。今まで生きてきた中で、彼が希望を持てないものは、どういうわけか一つもなかった。壊れた柱も、握りしめた手も、鳩も、天使も、彼にとってはロマンスだった。今から百年後、若者たちに自分の眼が茶色かったか、それとも青かったか、考えさせてみたいと彼は思った。そして自分の墓が、遠い遠い昔の雰囲気を漂わせるものであって欲しいと切に願った。北軍兵士の墓列の内、墓を二つ三つ見た彼は、亡き恋たち、亡き恋人たちに思いを馳せた。それらは他の墓と全く同じ、黄色がかった墓なのに不思議だった。

『楽園のこちら側』からはカットされましたが、ゼルダさんの手紙にある「Old death is so beautiful—so very beautiful—We will die together—I know— Sweetheart—」は大きなヒントになりました。

楽園はきっと美しいところでしょうから、死が美しくて、そこに愛する人と2人で行けるなら、きっとそこが楽園で、逆算すると、生きている現実世界が楽園のこちら側なのだと思いました。

また、楽園のこちら側とは、上記とは別に、出世街道や富裕層の世界に入れない庶民の側の世界のことも含んでいるのかもしれません。

原文ではwalk it out, stroll it out, run it outという表現が繰り返し使われていて、和訳版(米文学研究同好会版)では「追放」と訳されています。

文脈を考えると、楽園のこちら側とはつまり追放された側なのかなと。

英語の難易度は最高レベルに難しい

『楽園のこちら側』の英語の難易度は最高レベルです。『グレート・ギャツビー』がかわいく思えるくらいにエグく、あらゆる英語原書の中でも最高レベルに難しい一冊です。

なぜそれほどまでに英語が難しいのか?その答えは英語版Wikipediaにありました。

要約:散文の基は詩にあると信じて耳から作文した。その結果、音の似ている言葉との誤用や不合理な記述が生じ、読者と批評家を苛立たせた。ある批評家は「小説が持ち得るほとんど全ての欠陥を有する」と論じた。

以下、比較的簡単な例から、難しい例まで、いくつかピックアップして紹介します。

“Of direction, I do.”
もちろん、私はします。

”of direction”なんていう英語のフレーズはありません。これは英語的に間違っています。正しくは、Of course(もちろん)となるところを、Courseを類義語のDirectionに変えてOf directionとする言葉遊びになっています。

言われてみれば、なんだそんなことか、となりますが、この仕組みに気づかずに読んでいると意味がわかりません。

続いて、難易度を少し上げてみましょう。

Let’s now not talk approximately it.
今その話をするのはやめよう。

ここでもapproximatelyは英語的に間違っています。正しくは、approximately「約」→about「約」→about「〜について」

I’ll in no way write whatever however mediocre poetry.
平凡な詩以外は書けないんだ。

ここではwhatever howeverが間違っています。正しくは、whatever however「何でも、しかし」→anything but「butの後ろ以外何でも」

次の難易度は一気に上がります。

Seek pride where discover it for to-morrow die. At’s pholos’phy for me now on.
明日死んでもいいように、快楽を求めろ。それが今の僕の哲学さ。

これは文法どうなってるの?特にwhere以下。学校で英語の語順はS→Vと習いましたが、ここではそれが破綻しています。

prideは文脈的に「快楽 pleasure」的な言葉がはまる位置です。これは文脈から推測できましたが、prideとpleasureが類義語なのかはわからないです。

At’s pholos’phyは、音から推測して、That’s philosophyなので、まだわかりますけど。

次で最後です。これが一番難しかった。

The higher-magnificence golf equipment, concerning which he had pumped a reluctant graduate in the course of the previous summer time, excited his interest:
前年の夏、言い渋る卒業生から無理やり聞き出した上級生のクラブのことが、彼の好奇心を掻き立てていた。

これは(社交)クラブのことをgolf equipmentと書いています。これはさすがになんじゃそりゃ?です。

シンプルに読みにくい。こんな言葉遊び全然面白くない。こんなの新しい表現でも芸術でもなんでもない。発売当時、苛立ったという読者と批評家を私は支持します。

あなたはこの言葉遊びを楽しいと思いますか?それともイラっとしますか?(笑)

流石にこれはダメでしょ、となって、その後、以下の修正版が発表されたようです。

※私が購入した修正版はこのKindle版なので、その他の紙本も同じ内容か確信が持てないため、リンクはKindle版のみとさせていただきました。Kindleユーザー以外の皆様、申し訳ございません。また、私が購入したオリジナル版は現在のアマゾンではリンク切れになっていました。オリジナル版にご興味がある方はOriginal Editionなどのキーワードを頼りにご自身でお探しいただけますと幸いです。こちらも具体的なリンクを示せず申し訳ございません。

村上春樹さん『風の歌を聴け』との類似性?

両作とも文章を短く切り貼りしていて、場面転換が早く、テンポが良いです。特に『楽園のこちら側』は、詩や手紙の挿入があり、更に切り貼り感が強いです。

あと、『風の歌を聴け』の冒頭で、鼠が金持ちにキレていますけど、金持ち嫌いはそのまんまスコット・フィッツジェラルドさんですね。数々の状況証拠から、スコット・フィッツジェラルドさんは金持ちや既得権益層に反骨精神(や嫉妬)があったと思われます。

有名な『グレート・ギャツビー』も、デビュー作の『楽園のこちら側』も、お金のある人とない人がいて、ない側の人はそれが理由で振られる。まるでスコット・フィッツジェラルドさんの人生そのもの…。

また、『風の歌を聴け』にはデレク・ハートフィールドという架空の作家が登場し、『 楽園のこちら側』にはトーマス・パーク・ダンヴィリエという架空の作家が登場します。ダンヴィリエの言葉は後に『グレート・ギャツビー』のエピグラフに採用されます。

これらの類似性は偶然かもしれませんが、このような結び付けをしたくなるくらいには類似している部分があるように思います。

次作2nd長編『美しく呪われたひとたち』の記事はこちら

美しく呪われた人たち:あらすじ、原書で読んだ感想・考察(スコット・フィッツジェラルド2nd長編)
『美しく呪われた人たち(The Beautiful and Damned)』は、1922年に発表されたスコット・フィッツジェラルドさんの2nd長編です。前作は時代を動かす衝撃がありましたが、小説としては問題があり批判もされました。今作では改善が見られ完成度は上がりましたが、衝撃は失われてしまいました。売上は引き続き好調だったそうです。

スコット・フィッツジェラルドさんのまとめ記事はこちら

スコット・フィッツジェラルドの全長編&短編集を原書で読んだ感想・考察
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